井本英一『輪廻の話』

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井本英一『輪廻の話―オリエント民俗誌』(法政大学出版局 1991年)

 

 井本英一の本は、『古代の日本とイラン』、『飛鳥とペルシア』に次いで読みました。この二冊は2014年12月30日の記事で取りあげていますが、その時書いているのと同じ感想を持ちました。次から次へと奇妙な面白い事例が紹介されるその多さにびっくり。思い出したようにどんどん出てきます。少し関連づけながら次へと移って行きますが、どちらかというと、例のソシュールの用語で言うと範列的で、構造的な理解は進みません。前回読んだキャンベルの『宇宙意識』は、数少ない例を挙げながら全体を考えているという意味で、連辞的と言えるでしょうか。

 

 似たような事例をまとめて紹介していますが、すべてが関連があるように考えるのは、推理が働きすぎているような気がします。偶然似かよっているということもあり得るのに、そこに関連を見ようとするのは、民俗学にありがちな一種の病癖とも言えるのではないでしょうか。読み物としては好奇心をそそられわくわくして面白いものですが。

 

 この本はイランを中心に、インド、中国、日本など東洋の宗教・儀礼・風習・民話のなかに出てくる共通のテーマを紹介しながら、その意味をさぐったもので、学会誌など専門的な雑誌に発表したものと(Ⅰ部)、一般向きに新聞に書かれたもの(Ⅱ、Ⅲ部)を収めています。どんなテーマかを羅列してみると、魂の転生(輪廻思想、動物の皮を被る風習、変身合戦)、ふくべ=ひょうたん=ひさご(中空に異世界を見る、ひさごの呪性)、七夕(男女の交わりの日、再生の日)、羽衣(異類通婚、神と人との婚姻、井戸のそばで女性に逢うモチーフ、妻選び)、境界(二つの社の形式、境界石)、水の女神(アナーヒター、母子神)、ミスラ→ミトラ→ミフラク弥勒、みそぎ(生命の水、脱皮)、正月の風習(キリスト教ユダヤ、古代イラン、中国)、とんど(ヨーロッパの火祭り、イランのサダ祭、中国の寒食、灯火祭、東大寺の修二会)、まだまだありますが疲れてきたのでこの辺で。

 

 読んでいて懐かしかったのは、『西遊記』のなかの二つの事例。ひとつは変身合戦で、悟空が真君と闘うときに雀―鷹―鵜―海鶴―海老―蛇―丹頂鶴―野雁などいろいろな動物に変身し合い、また牛魔王芭蕉扇をめぐって闘争した時も、白鳥―鷲―鷹―黒鳥―白い牛と変身し合います。もうひとつは、ひょうたんの口を空に向けて開け、人を呼び「応」と返事をすると、その人を中に吸いとるという赤いひょうたんの話。

 

 不勉強で知らなかった、いくつか面白い断片的情報を引用しておきます。

天皇大嘗祭で天の羽衣を着用して水につかり、それを脱ぐ儀礼がある。羽衣は本来は多くの鳥の皮を縫い合わせてつくった衣服・・・それを着て脱ぐことは天皇への魂の移転を意味していた/p24

 

七夕は・・・七月十五日の盂蘭盆の導入部としての再生の日であった/p84

大麻を使用して幻覚をおぼえ他界を遍歴する物語は、すでにアケメネス朝代に成立/p107

 

境界石の本体である柱石の下には、そこを通る者が、一個ずつ石を置いて行った。この習俗は、ギリシアをはじめ、広い地域でみられるケルンのそれである/p149

 

弥勒は、仏教梵語ではマーイトレーヤ・・・マイートリーはミトラの派生語・・・漢訳されたときは、イラン語の呼び名が写音された・・・ミフラクがそれで、ミーラク、ミーラグとも実際には聞こえた/p151

日本書紀』によると・・・百済から鹿深(かふか=甲賀)臣が弥勒の石像を一軀もって帰来し・・・境界石として戸口に祀られた・・・甲賀三郎譚は、もとは、甲賀氏が百済からもたらした、境界神弥勒にまつわる冥界めぐりの話/p152

東方教会では、一月六日はキリスト生誕日・・・西方教会ではキリスト生誕日は十二月二十五日に移行し、ギリシア教会では一月六日は洗礼祭として固定したが、アルメニア教会では一月六日は現在でもクリスマスであり洗礼祭の日である/p167

古代オリエントでは春分が新年とされ、その伝統はイランによって引き継がれている。この暦では冬至が冬のはじめの十月一日になり、春分が一月一日になる/p178

人間の赤ん坊には舌の下がわにもう一つの小舌があるが、大人になると退化する/p226→ほんまかいな

日本でも昔は正月にも祖先が帰ってきた・・・祖先を供養し、交換・共食することで自分のからだにも祖霊の力を移した。この力は年玉といわれたもので、人間どうしの間でも贈与された/p248