井本英一『習俗の始原をたずねて』

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井本英一『習俗の始原をたずねて』(法政大学出版局 1992年)

 

 井本英一の本は相変わらず重複の多い話ばかりですが、慣れてきたのか、読み物として面白い章節もありました。例えば、「あべこべの世界」などは、澁澤龍彦種村季弘が書いてもおかしくないような味わいが感じられましたし、「初物の話」は目新しい話題が多かったように思います。いくつかまとまったテーマが目に留まりましたので、ご紹介します。

 

①偶数と奇数について、古代人はいろんな考えを持っていたようで、ひとつは、奇数を偶数よりも重要視する見方。奇数は二等分できずいつも余りが出るが、これこそ生成の芽であるとする。月でいえば三日月や上弦月には生成の芽があるが、満月は完成したあとの衰えしかない(p17)。また古代ローマの霊魂の祭りが必ず奇数の日で行われたように、死者の世界との交渉や死者の再生には奇数が必要と考えられたらしい(p19)。一方で、贈答や婚姻は円満であるべきなので偶数を尊ぶということもあった(p18)。

 

②はっきりとは書かれていないように思うが、五穀の初穂など初物を神に返すという風習があり、それが神から与えられる十分の一を捧げるという習慣となり、十分の一税のもととなったようである。なぜ初物かというと、初物は危険なエネルギーを持っているからである。花嫁の初夜権も花嫁の処女性のもつ危険性を除去するのが本来の意味という(p40)。また金銭は初穂以上に危険なエネルギーを持つと思われたので、新銭からそれを除去する手続きが必要とされ、経済の発達とともに、五穀からそれを買える金銭へと移行していった(p44)。

 

③この世とあの世のあべこべについていろんな事例が引かれていて、この世とあの世は、地面を境として鏡の映像のように、上下左右が逆さまになっていると多くの民族は考えていたらしい(p80)。イザナギの黄泉国訪問、イシュタルの冥界降りなど、古代から中世にかけての異郷訪問譚では、冥界へ降りていく前半と戻ってくる後半とが裏返しの構造を持っていることや(p82)、アルタイ系諸民族が死者の世界は左右が逆と考え、死者の服は生者の右ではなく左でボタンを留め、刀は死者の右側の帯のところにつけるというようにしたこと(p92)など。

 

④多くの文化では、祭司や信者が裸になるのは神に近づくためとされていて、裸にして人を打つのは懲罰のためではなく、権威を授けるためということがあった(p116)。打つことには、打たれる者から力を引き出す場合と、その中に魂や力を鎮め込めてしまうという二つの場合があり(p141)、ものを打つと、そのものが持っている不思議な力が出て、打つ人の身体につくという。不思議な力の代わりに、食物や宝物が出る場合もある(p142)。さじで食器を叩くと祖先霊が出て来る信仰が、日本では食器を箸で叩くことに対するタブーに変化したのだろう(p137)。

 

⑤悠久の昔には、死者の魂はいつも生者の世界に留まっていたと考えられていたようで(p150)、家の床下に埋葬するのは人類共通の習俗であったらしい。死者と生者が同じ家で生活するという考えがあったと思われるし、人間は彼が生まれた場所で死に、そこに埋葬されるべきであるという考えもあったようだ(p168)。沖縄では長らく家の背や軒下に埋葬する習慣が残っていた(p167)。日本では古くから幼児の埋葬は、家の入口の敷居の下にするという伝統があった。それは、もう一度、死んだ子どもの魂がここを出入りする母親の胎内に入って、生まれ変わるようにという願いからだったろう(p169)。

 

⑥至福の島や箱庭など天国のイメージを小さなものの中に表現する事例として、イスラム教のモスクや聖者廟の中庭中央に配された沐浴用の池と、周囲の樹木とそれに憩う小鳥が人工の楽園を思わせること(p270)、イスラム教でもキリスト教でも古くから楽園に眠りたいという希望があり、いずれもモスクや教会の庭内に墓があること(p271)、また極東では、海に浮かぶ至福者の島を箱庭として表現していて、ハノイでは水槽の中に岩を置き、その上に植物を植えたヌイ・ノン・ボという箱庭があることや、中国では漢代に、水盤の中に博山炉を立て、文人たちが香を焚いてそれを愛でたこと、蓬莱・方丈・瀛(えい)州は至福の島で壺の形で表象されたこと(p277)などが紹介されていた。蘇我馬子が「庭に小さい池を掘り、池の中に小さい島を築いた」ことは『境界・祭祀空間』にも出ていた。

 

最後に、変身譚に関連した面白い話があったので、書いておきます。

ある武士が苦行中に夢でお告げがあり、そのとおりに、朝、頭を剃り手に棒をもって門のところに隠れ、やってきた雲水僧をめった打ちにすると、僧は黄金がいっぱい詰まった水瓶となった。床屋がこれを見て、同じようにやって来た僧をめった打ちにしたところ、僧は死んで、床屋は殺人の罪で役人に打たれて死んでしまった(インドの説話集『ヒトーパデーシャ』)(p142)。

ある王女が家来と恋をして結婚したいと言うが、父王は許さないので二人は馬に乗って逃げる。王が追ってくるが、馬は土地、馬具は畑に、王女はレタス、家来は農夫に変身する。さらに父に追わると今度は、馬は礼拝堂に、馬具は聖壇に、王女は聖女像に、家来は聖器係僧に変身する。最後にはめでたく結婚(ポルトガルの民話「白花姫」)(p244)。