:アンリ・ド・レニエ『生きている過去』

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アンリ・ド・レニエ窪田般彌訳『生きている過去』(岩波文庫 1989年)
                                   
           
 昔、桃源社版で読んだものの再読。てっきり学生時代に読んだつもりになっていたら、裏の見返しのところに88年5月24日という書付があり、かなり後だったことが分かりました。前回読んだ『ある青年の休暇』も再読で、こちらは72年5月27日、正真正銘学生時代。両方ともすっかり内容を忘れていたので、新しく読んだのと変わりません。『生きている過去』の当時の評価は△で、ややこしい人名が頻出し、話が入り組んで難しかったような記憶がおぼろげながら残っています。今回の評価は◎で、当時は話がよく理解できてなかったようです。

 主人公ジャン・ド・フラノワの若者の心の動きを描くところは『ある青年の休暇』に似ていて、さらにそれを濃密に描いたという感じですが、全体としては、これまで読んだなかでは、『Histoires incertaines(さだかならぬ話)』の懐旧的で幻想的な世界にもっとも近いと思われます。いちばんのポイントは、20世紀初頭の現在と18世紀の過去が呼応するところで、主人公ジャンの精神が徐々に崩壊し、自分を同名の先祖と同一視して行くさまが描かれますが、古い館で先祖の肖像画を探し、壁の絵には見つからず屋根裏部屋にしまっている額の中にあるのではと考える場面や(p227)、館の鏡のなかにその先祖の面影が次第に近づいてくると感じる場面は(p257)、『さだかならぬ話』の「L’ENTREVUE(対面)」を思わせます。

 また、ジャンの友人の妻アントワネットの祖母にあたるやはり同名のアントワネット・ド・サフリー夫人の肖像画ラ・トゥールが描いていたというところや(p80)、「黄色い石と薔薇色のレンガでできた気品のある正面・・・前では、噴水が小さな池へと流れこんで」いる館や庭園の雰囲気は(p61)、『さだかならぬ話』の「LE PAVILLON FERMÉ(閉じられた館)」を思わせます。


 この物語は、20世紀初頭に生きている二人の男女が、18世紀に生きた同名の先祖たちが交わした不倫の手紙の束を古机の引出しに見つけたところから、それに操られるように悲劇へとなだれ落ちていく話が主軸になっています。その背景にあるのが登場人物たちの過去に対する二つの態度の比較で、無為のうちに18世紀を夢想する主人公ジャン、カザノヴァを敬愛する友人ロオヴロー、古いイタリアを愛するチェスキーニ伯爵、革命を呪い古い館を守ろうとするジャンの父親、その他骨董蒐集家ら過去に生きる人びとが登場する一方で、自動車を乗り回し事業を興すモーリスや、豪奢で新しい家を建てるコランベール、アメリカの大富豪の令嬢ワトソンなど近代に生きる人びとが登場し相対する構図となっています。

 もちろんレニエの本意は過去を愛惜することにあり、18世紀を象徴するものとして、いろんな人物の名前が出てきます。その第一はカザノヴァで、主人公と友人ロオヴローはカザノヴァの足跡を辿ってイタリアを旅行し、ロオヴローはカザノヴァを主人公とした劇まで作ります。文芸畑では、「恋する悪魔」のカゾット(p89)、喜劇のゴルドーニ、ゴッツィ(p177)、絵画では、イタリア風景画のユベール・ロベール(p136)、悪夢を描いたピラネージ(p160)、ヴェネツィアを描いたカナレット、ロンギ(p168)、フラゴナール(p174)、ブーシェ(p256)などが出てきました。


 ジャンの言葉には心を動かされるものがあります。いくつか引用します。

われわれの内部には、じつに奇怪で神秘なものがあるんだ。いったい、自分自身のなかにいるのは自分だけだろうか? われわれが生きている人生は、われわれに固有なものだろうか? ある思い出とか予感とかは、どこからくるものなのか? /p158

われわれは自分自身のなかに生きて、やがて次々と死んでいくわけだが、その前に祖先の一人一人のなかで、すでに何回となく死んできたのではないか? われわれは現にこうして生きている以上に、もっと生きるのではないだろうか? /p277

生きている者たちは死者に対し、あらゆる権利があると主張しますが、実際は逆で、死者たちこそ、生きている者たちに対して権利を持っているのではないでしょうか? /p318