:窪田般彌『フランス文学夜話』


                                   
窪田般彌『フランス文学夜話』(青土社 1981年)

                                   
 レニエを読んだ流れで、『生きている過去』や『ヴェネチア風物誌』を訳している窪田般彌の本を続けて読んでみようと思います。窪田般彌の評論はこれまで6冊ほど読んでいますが、所持していて読んでないのも5冊ほどあります。『フランス文学夜話』の目次を見ると、これまで読んだ本と同じような作家や詩人、テーマなので、すでに読んだことがあるようなことが書いてあるかもしれませんが、すっかり忘れてしまっているので、とりたてて問題はありません。

 ただしこの本の中だけでも重複が散見されるので、もう少し本にするときに工夫が必要だと感じました。例えば、カザノヴァを語った項目が「カザノヴァの人生哲学」、「フェリーニのカザノヴァ」、「七人の詐欺師」、「カザノヴァとドン・フワン」の4つもあり内容が少しずつ重複していましたし、「詩と音楽」と「ビートルズ」もフランス歌曲についての文章が重なっており、「フランスのSF」と「明日、猫たちは」もフランスの1950年代SFの状況を語る記述が同じでした。


 この本は、ボードレールやレニエから、アポリネール、エリュアールにいたるまでのフランス文学、ブーダンやルドン、ピカソなどの絵画、サティやドビュッシーの音楽、さらにはポンパドゥール侯爵夫人やカザノヴァなどの歴史上の人物、堀口大學日夏耿之介など日本の文人まで幅広く論じています。


 とりわけ印象深かったのは、
鷲巢繁男が、戦時中にランボーを筆写し一冊の『悪の華』をボロボロになるまで読み、詩が書物ではなく唇頭に生きていたと述懐していること(「魂のコミュニオン」p204)
「近頃では筆写とか暗誦とかいったことが不当に無視されているが、詩文に接する方法でこれに勝るものはない。詩の雑誌などを読むと、難解な哲学用語や晦渋な表現のみが目立つ文章や、一知半解の外国評論を下敷にした評論などにしばしば出くわすが、そうしたものは所詮詩とは何の関係もないものであろうし、詩を楽しむ上に百害あって一利もない」と言い放っているところ(「慰めの国」p227)。
さらに、あちこちの文章で何度も引用される阿藤伯海の言葉。「諳んじてのち之を論ずるは善し、論ぜず之を楽しむは更に善し」。
これらはすべて同様のことを言っているわけですが、共感しました。


 他には、レニエやミュッセを通じてヴェネチアの文化的爛熟の魅力を語った「ヴェネチア、十八世紀」、マラルメとルドンが互いに尊敬しながら交流していたことに注目し、二人に共通する象徴主義の特質を明らかにした「ルドンとマラルメ」、象徴主義がポーの影響のもとに詩から叙事的なものや劇的な要素を排除し、言葉の音感やリズムの美しさを愛で音楽に近づいていったことを素描する「詩と音楽」、上等な料理と酒を好み、古典詩に通じ、女性を愛した社交好きなカザノヴァと、美食も酒も好まず女性を蔑視した人間嫌いのドン・ファンを比較した「カザノヴァの人生哲学」などが面白かった。


 カザノヴァが『ドン・ジョヴァンニ』の初演に協力した可能性があり、モーツァルトとも初演の二日前に会っているらしきこと(p69)は初めて知りました。

 アポリネール国立図書館の≪猥本書庫≫に出入りし、サドや、ミラボー伯爵、アレチノ、ヴァッフォなどを≪愛の巨匠≫叢書として編集していたこと(p156)が書かれていました。先日買ったアポリネール序文の「HISTOIRE de Mademoiselle BRION」もおそらくその叢書の一冊だったに違いありません。


 レニエが生れた町オンフルールに、ボードレールが3ヵ月ほど滞在して、その間に『悪の華』の「信天翁」「旅」などを書き、また後の『パリの憂愁』の「港」のイメージが形作られたらしいことを知りました。ジャン・ロランが近くのフェカンで生まれ育ったことをあわせると、ノルマンディーに行ってみたくなりました。