:ドミニク・ボナ『黒い瞳のエロス』


ドミニク・ボナ川瀬武夫/北村喜久子訳『黒い瞳のエロス―ベル・エポックの三姉妹』(筑摩書房 1993年)


 アンリ・ド・レニエの周辺情報が満載されているようなので読みました。レニエが出入りした文学サロンの主宰エレディアの娘三姉妹を中心とした評伝です。次女がレニエの妻となります。どうしてもっと早く読まなかったんでしょうか。前回読んだジョルジュ・プーレの評論と180度違って、いわゆるゴシップ的な話も次から次へと出てきて、まるで小説を読んでいるようで、とても読みやすい。人物像を克明に描いたり作家の内面感情を推測することはあっても、作品の内容に関する抽象的な言説は一切書かれていません。

 著者の語り口はなかなか巧みで、物語へと引き込ませる謎めいた雰囲気の導入部にはじまり、エレディア夫妻、その三姉妹エレーヌ、マリー、ルイーズ、その相方マンドロン、レニエ、ルイス、そして彼らの友人たちという大勢の人物が順番に入れ替わりながら登場し、お互いの錯綜した関係をひとつずつ叙述しながら、全体のドラマを描いています。文章も、手紙や詩を巧みに引用したり、想像による人物の内面の独白を挿入したりして、臨場感あふれる筆致となっています。また訳文も翻訳とは思えないほどよくこなれて読みやすく思いました。                                   

 全体を通しての大ざっぱな感想としては、レニエがあまりにも可哀想ということ(説明は長くなるので省略)、ルイスやダヌンツィオの荒淫ぶりに驚いたこと、19世紀末から20世紀初頭までのフランス文人たちの交流が見えたように思えたこと。しかし両大戦の後、それまでの古き良き社交の雰囲気が消失してしまったことはとても寂しい。また、レニエのアメリカ講演旅行の様子や、ヴェニスでの生活を知ることができたのが収穫。
   
 いくつかのテーマがありました。ひとつは作家のあり方で、プロ意識がありどんな注文にも応じて書く職業的作家と、売文業を否定し少数の真の理解者、愛好者のために書くという作家のあり方を、アンリ・ド・レニエピエール・ルイスを例にして対比させています。それによってルイスはどんどん困窮に陥ってしまうことになります。

 ピエール・ルイスが一種の新人発掘能力をそなえた編集者的な人物だったことが分かります。まずジッドをマラルメやエレディアの文学セナークルに導き入れ、田舎の一文学ファンだったヴァレリーマラルメに引き合わせ、まだ駆け出しの作曲家だったドビュッシーを支援したりしています。またジルベール・ド・ヴォアザンの処女長篇の出版の仲介をし、原稿に手を入れさえしたと書かれていました。

 面白かったのは、レニエの弟子たちの話で、エドモン・ジャルー、ジャン=ルイ・ヴォドワイエ、エミール・アンリオの三人は、レニエに敬服するあまり、ポエジー崇拝はもちろんのこと、ヴェネツィア愛好、室内装飾の趣味、口ひげ、身だしなみにいたるまで、彼とそっくりになっていったこと。たしかに先日読んだエミール・アンリオの作品には、レニエの面影が濃厚にありました。


 他にも、いくつかの面白い情報がありました。
ジルベール・ド・ヴォワザンがサーカスについての小説を書くために数か月ものあいだにわか曲馬師になったこと、また詩人のヴィクトル・セガレンと共に中国大陸に渡り、チベット遠征を敢行したこと。
孤高の詩人のイメージのあるエレディアが賭博でひどい借金を背負っていたこと。詩を朗読する時にかなり吃ったこと、でもそれがかえって詩の興趣を高めたようだ。
フランシス・ヴィエレ=グリファンがパリの古い家系の音楽出版社の息子だったこと。
ピエール・ルイスはルイスと言われると怒ったようで、本人はルイのつもりだったこと。
ルイスと三女ルイーズの結婚式にドビュッシーがルイスからの願いで結婚行進曲を作曲したこと。
晩年のルイスが何人かの秘書を雇ったが、そのなかに詩人のジャン・カスーがいたこと。
レニエがかなり上手な剣の使い手で、ロベール・ド・モンテスキウと決闘して、モンテスキウの手に傷を残したこと。


 冒頭に「主要な登場人物」を配したのは、索引の代わりということでしょうが、やはり巻末に人物名の索引があった方がいいと思いました。