:ジャン・ロランの伝記(ノルマンディ著)


Georges Normandy『JEAN LORRAIN』(VALD.RASMUSSEN 1927年)

                                   
 先日読んだロランの『LE CRIME DES RICHES(富豪たちの犯罪)』で、ノルマンディの「LA LEGENDE ET LA VIE DE JEAN LORRAIN(ロランの伝説と生涯)」という35ページの序文を読みましたが(3月4日記事参照)、さらに詳しく知りたいと評伝を読んでみました。フランス語で詩や小説以外を読むのは難しいので極力避けていますが、この本は作品の内容を論じたりするのではなく、ひたすらロランの生涯をたどり、家系や生い立ち、住まいの変遷、交友関係や病歴を語っていてたいへん読みやすい。

 ジャン・ロランに対する印象を一言でいえば、当時の文壇では一種スキャンダラスな存在だったようで、その点では日本でいえば三島由紀夫に似ているように思います。ノルマンディの港町フェキャンに生まれ育ち、父方の家系が船乗りや船貸しで、勇猛で荒っぽい性質を受け継いでいて、ロラン自身も背が高く、フェンシングや決闘を好み(プルーストとも決闘をしている)、どちらかといえば肉体派だったようです。裕福な家庭に生まれていますが、子どもの頃父親に命じられて牛を市場に売りに行ったり、軍隊に入ったりと、温室育ちというわけではなかったようです。

 一方、父親が不在がちで、主に母親に育てられ、その母親が文学好きで、幼少のころから物語を聞かせられたこともあり、早熟な感受性を持っていたようです。10歳の頃の体験がその後のロランの文学的感性に影響をもたらしました。それは、腹ばいになって泉に顔をつけて水を飲んでいたら、目の前に膿疱のできた不潔な蛙が近寄ってきて、吐き気のするような臭いを発していたという体験です。ロランは、「これまで見たことのない蛙で、…おとぎ話に出てくるような姿で、廃墟の宝のうえに陣取り、重い金の冠を被って、左足でベラドンナの花を見守りながら、人間の血を啜って生きている奴だった。僕の飲んだ泉の水に奴がいたと知った途端、腐った水を飲まされたように思えた」(p25―以下も含め引用は意訳というか間違いのある可能性大)と書いています。

 ロランは10歳まで、モーパッサンを教えたこともある家庭教師らについて学び、10歳からパリ近郊の寄宿学校に入ります。13歳の時に母親宛てに書いている手紙の文章が大人びていて難しく、すんなりと読めなかったのは情けない。

 もう一つ文学的出発の契機になったのが、フェキャンにヴァカンスに来たジュディット・ゴーチェ(テオフィル・ゴーチェの娘)に恋して振り回された挙句に振られたこと。その思いを詩に綴ったのが、のちに『Le Sang des Dieux(神々の血)』に2篇、『La Forêt Bleu(青い森)』に10篇収められているとのことです。この時の体験は、ロランが女性に対して不信感を持つようになり、生涯独身を貫くことになったことにも関係しているようです。

 ロランの文壇デビューは、パリに法律を学びに出てきて、親類の文学サロンに出入りしたりしながら詩を書きため、それを自費出版したことに始まります。その最初の詩集『Le Sang des Dieux』にいち早く目をとめたのは、ルコント・ド・リールテオドール・ド・バンヴィル、ホセ・マリア・ド・エレディア、バルベー・ドールヴィイらだったそうです。さらに雑誌に寄稿しながら、いろんな文学サロンに出入りし、コッペ、ユイスマンスレオン・ブロワ、スタニスラス・ド・ガイタ、ローラン・タイヤードなどと交友を広げていきます。

 ドールヴィイの家で、生涯の友となるオクターヴ・ユザンヌと出会い、旅の面白さを教えられました。彼と一緒にオランダに行った時に生まれた作品が「ブーグロン氏」。その後、ラシルドやマラルメのサロン、近所だったゴンクールの家などに出入りし、マラルメのサロンでは、アンリ・ド・レニエ、ギュスターヴ・カーン、マルセル・シュオブらと知り合うことになります。ロランは社交界で次第に悪徳の仮面を身にまとうようになったと言います。師と仰いだドールヴィイと同じく、奇抜でダンディな格好で町の人を驚かせました。

 他の作家のロラン評がありました。アナトール・フランスは「ロランは詩人だ。現代的な幻想であるラファエル前派と神秘主義の味わいが絡み合っているが、伝統的な高踏派の詩風だ。散文にも詩的な要素が感じられる。彼は古い宝石を詩で輝かせ、昔の家の魂を歌わせる。古びた公園の憂鬱の核心に踏み込み、幽霊屋敷の神秘を捉え、北欧の樹木に覆われた館を描いて恐怖を与えるのだ」(p122)。シャルル・モーラスは、はじめロランを現実の語り手として小説だけを評価していましたが、のちに「私は間違っていた。彼は詩人だ…ロランの驚くべき詩には過去の詩人のおぞましい技巧もあるが、さらにメロディーや軽やかなイメージ、人間や神が微笑み語りかける姿があって、技巧がたどり着けないような味わい深い境地に達している」(p128)と書きつけています。

 ロランの活動ジャンルは、詩、小説をはじめとして、諸雑誌への時評、戯曲、オペラ、バレエ、グランギニョル作品、キャバレー作品など多岐にわたっています。雑誌の文芸時評欄では、かなり辛辣な筆を振るっていたみたいですが、珍しく評価した詩人は、アンリ・ド・レニエ、アンリ・バタイユ、フランシス・ジャム、フェリシアン・シャンソール、ジャン・リクテュス。次々に作品を出版することで文壇のなかで次第に存在感を増し、またパリの一般社会でも有名人になっていきますが、同時に奇行もかなり目立つようになったようです。

 劇場の満座のなかで、ロランが悪評を書いた女優から重しの入ったハンドバックで殴られ血だらけになったり、別の女優から馬車の鞭で殴られそうになって逆に奪い取って顔中にキスをしたりとか、高級レストランに場末のパンパン風の珍妙な服装の女性たちを連れていったり。また舞踏会や仮装に熱中し、ある時はサラ・ベルナールの前で、トルコ人の衣裳を身に着けて東洋風の舞を踊り、好色な女、戦士を次々に演じ、最後にはローマ貴族の断末魔を熱演して驚かせたそうです。

 いくつもの雑誌に寄稿し次々と詩集や小説を出版する旺盛な執筆活動、それに文学サロンでの社交、雑誌編集者や劇場監督との打ち合わせ、さらに下町でレスラーやチンピラ連中と破天荒な酒池肉林を定期的に繰り返すという多忙な生活の中で、精神安定のためにエーテルの服用を始めたことが、後のロランの不幸につながったようです。このエーテルというのがよく分かりませんでしたが、調べてみると、19世紀末にアイルランド、ロシア、フランスなどで流行したアルコール代用品で、酩酊、麻酔の効果があり、酒よりも有毒ということです。ロランは精神を高揚させるために服用していただけで、コカインやモルヒネはやったことがないとも書いてありました。

 腸がいろんな菌に侵され、医者の勧めでニースに移り住みます。青い空の下太陽の光にあふれ、生まれ育った港町フェキャンを思い出す土地。「毒の街パリからうまく逃げることができて喜んでいる。本当は私は船乗りのせがれで、海だけが命だったんだ。パリに閉じ込められて痩せ細らされ腐らされていたんだ。いまや、身も心も健康になった。すべて忘れた。これまで苦しめられたことは夢のように消えた」(p154)と死ぬ直前に友人に手紙を書いていますが、すでに時遅しだったようです。