:ジョルジュ・プーレ二冊

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ジョルジュ・プーレ金子博訳『三つのロマン的神話学試論』(審美社 1975年)
ジョルジュ・プーレ近藤晴彦訳『詩と円環』(審美社 1973年)

                                   
 両冊とも大昔から持っていて、読んでなかった本。プーレは他に『人間的時間の研究』というのを持っていたはずだが見当たらない、ということは処分してしまったのか。

 『三つのロマン的神話学試論』の「訳者あとがき」で、バシュラールの流れを汲むテーマ批評の論客と紹介されていましたが、たしかに論の組み立て方がバシュラールと似ているように思いました。ある作家を論じる場合、作品を大きく支配するイメージを抽出し、それを深化させながら他の幾つかのイメージと関連づけたり他の作家との比較なども交えながら、作家の個性を浮き彫りにし、作品の意味づけをしようとしています。

 どの論文も初めの数頁のうちに、核心をつく問題提起がなされ、ものごとの中核にずばり入って行こうとする感じがあります。しかもその分析は鮮やかで、文学に関する多方面の知識を援用しながら、的確な追求がなされているように思います。読んでいるうちにワクワクするような評論というのはそんなにあるものではありません。

 文章はイメージ豊かで、詩を読んでいるような気にさえなります。エッセイの国の伝統か、箴言がちりばめられているような文章です。でもハッとするような凄さがあるが意味がよく分らない、理解できないが何か重要なことを言っているに違いないという文章もけっこうありました。全体的にも、読み進むにつれて、私の読解力の至らなさのせいか、混乱してぼやけてきて、ただ字面を追っているというようなことにもなりました。それは取り上げられている作家の本を読んだのがずいぶん前なのでぼんやりとしか覚えていないことにも原因があると思います。

 『三つのロマン的神話学試論』では、「シルヴィあるいはネルヴァルの思考」、「ネルヴァルとゴーティエと黒い眼をした金髪の女」、「ピラネージとフランス・ロマン派の詩人たち」の三篇、『詩と円環』では、ポー、ボードレールリルケ、エリオットの四人の作家を取りあげています。


 いちばん分かりやすく、また成功していたと思われるのは「ピラネージとフランス・ロマン派の詩人たち」。ピラネージの悪夢のような版画を題材に、ド・クインシ、ユゴーボードレール、ノディエ、ベックフォード、ポー、ミュッセ、ゴーティエの文章や詩を引用しながら、悪夢のよってきたる世界を解析しています。ピラネージがいかにこの時期の文人たちに影響を与えたかがよく分ります。

 空間と時間の増殖というのがその基本のテーマであり、空間の増殖である果てしない階段、音の増殖としての木霊、合わせ鏡のような映像の増殖、増殖する人間、その変形としての迷路の町、塔と井戸との牢獄としての同一性、地下道、深淵の眩暈と、イメージの記述が広がって行きます。


 次に分かりやすく面白かったのは「ネルヴァルとゴーティエと黒い眼をした金髪の女」。これはゴーティエとネルヴァルが探求した黒い眼の金髪女のイメージが、バイロンの『ドン・ジュアン』やミュッセの『マルドシュ』から由来することを示したのち、実際に二人が黒眼金髪女性を探しに北方へ旅行し、アントワープ大聖堂のルーベンス『キリスト降架』のマグダラのマリアにその理想像を発見したことが書かれています。

 二人の趣味は、徐々に黒眼金髪から赤毛の美女のタイプに移行しますが、ゴーティエの場合、その明晰な描出力という資質によって、女性像の陰翳が乏しくなり詩情が消えていく反面、ネルヴァルの場合は、その人物像が次第に深い内密の意味を増して秘教的な意味を帯びてくる、と対比的に描いています。


 その次は後半が少々難しい「ボードレール」(『詩と円環』)。ボードレールの作品に頻出する「廻る」、「泳ぐ」、「飛び回る」、「航行する」など、自由な空間を進む言葉に着目し、それらが持続的な運動や生成を表わし、広大な空間を形づくっていることをまず指摘し、次に未来に向かう運動が過去を呼び寄せるという時間の広がりについて言及します。

 そしてそれらの運動が、見る私と見られる私という風に「私」を二重三重にし、関係の果てしない多層化を作って行くことにボードレールの特徴を見、それぞれが呼びかけ反響し合うことによって、ひとつの統一性をつくり出していると言います。最後に、ボードレールが唐草模様を生気溢れ、想像的で美しいものと考えたのも、その本質的に移り気な運動性にあったと指摘しています。(本当かな?)


 『三つのロマン的神話学試論』の「シルヴィあるいはネルヴァルの思考」は、私には難しかったですが、評論として読まなくても、独立した文章として詩的な輝きに満ちています。「夢は人を真実に導くこともあるが、また幻に導くこと・・・もある」(p16)、「現実は二重であるという考えは、神秘主義の思想家のすべてに親しい観念である」(p17)、「主人公が経験する二重の愛、地上の愛と天上の愛は、それぞれ別の女性への愛という形をとっているのだが、実はある時は精神的次元に、ある時は地上的次元に現れるただ一つの感情にほかならないことが明らかになる」(p17)、「ネルヴァルがどこででも探し求めるもの、東方や、もしかしたら死の世界にまで探しに行くものは、彼の記憶や空想のなかにある見慣れた風景や見慣れた人にほかならないのである」(p68)。

 「シルヴィ」、「オーレリア」、「シメール詩篇」、「東方への旅」などからの引用を巧みに織りまぜながら、ネルヴァルが自らの狂気から逃れるために作品を生みだしていったこと、ネルヴァルがつねに現実を二重のものとして見ていたこと、古い昔からのさまざまなテーマが、夢見る魂の夢想のままに時代を越えて甦えり展開していること、などを明らかにしています。


 『詩と円環』所収の「ポー」についての文章も、きわめて難渋ですがイメージが豊富です。ポーの思考には、先には別の場所が何も見出せない断崖とか、霧とか、城壁で囲まれた場所、すなわち冥府があり、記憶がまだ生まれない前の時点の記憶、影の影という不確かなものがポーの周囲に霧のように立ち込めていると言います。

 ポーの「陥穽と振子」「マルジナリア」「早まった埋葬」などいくつかの作品のなかに見られる思考の朦朧としたあり方を題材に検討しながら、一般的な夢、夢の記憶、覚醒、意識、忘却、無意識・・・と文学のあり方を追求していると言えるでしょう。(この程度しかくみ取れないとは情けない)。


 いま頁をぱらぱらとめくっても、まだまだ理解できていないという感じが濃くあります。時間が許せば、再読の値打ちのある本だという気がします。(がたぶんもう読まないと思う)。