:廣瀬哲士『新フランス文学』


                                   
廣瀬哲士『新フランス文学―ナチュリスムよりシュルレアリスム』(東京堂 1930年)

                                   
 著者については知りませんでした。「仏蘭西文學」という雑誌の同人ということですが、おそらくどこかの大学の先生だったと思われます。この本は「詩」「劇」「小説」「随筆と評論」の4部に分かれていて、最後に「仏蘭西文學」の同人仲間が個別の作家について書いたものを「補遺」として収録しています。いかにも昭和モダニズムといった感じの装幀。

 日本で出版された本では、19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスの作家名がこれほど出てくるのは例を見ないのではないでしょうか。「序」で本人も告白しているように、いくつかのフランスの種本をもとにしているようです。


 「詩」のところは、章立てが『現代仏蘭西詩壇の検討』に似ていて、細かく分類されています。末期浪漫派、パルナシアン象徴詩派、ロマーヌ派、ナチュリスム、ユマニスム、アンテグラリスム、修院の群、ユナニミスム、未来派、立体派、『方陣ファランジュ)』派、雑誌『西欧』派、新古典派、幻想派、ダダイスムシュルレアリスムなどなど。19世紀末ごろから、おびただしい雑誌が刊行され、カフェやサロンにいろんなグループが割拠して、フランス文学史上類を見ない時代になったと言われますが、その乱立の様子がよく分かりました。

 聞いたことのない詩人名が頻出するうえ、詩の引用も少なく、説明も不十分なので、書かれていることの真偽も定かではありません。著者自身は、客観的記述を装いながら、どこかナチュリスムやユナニスムに共感している節があります。

 大きな流れとしては、一世を風靡した象徴主義が「大蛇、小鷲、一角獣、珍奇な布、不思議な灯、伝説の王女、魔法のほれぐすりなどの羅列」とマンネリ化するなか、レニエをはじめ、ヴェルハーレン、A・レッテ、S・メリル、A・サマンなど、過激な象徴表現を駆使していた詩人らが穏当な表現に傾き、またF・ジャム、P・フォール、ノアイユ夫人ら自然と人生が複合する美を歌う詩人が登場するなど、古典主義的なものへの回帰の動きがあり、またその反動として『方陣』派があらたに現れるという具合に、ファッションの流行現象のような動きをしているのが印象的。

 また1930年の刊行だけに、シュルレアリスムが現在進行形で語られていたのが新鮮。

 詩の引用が少ししかありませんでしたが、そのなかでも、「生きた迷宮の秘密を知っているアリアヌ/・・・/消えた影の皺と瓶にさされた/リスの花の輪郭とが一緒になり/エレヌの屍を蘇らすものを/過ぎたわれらの悩みの中に見出すことはないか(ジャン・ロワイエール)」(p60)や「見えぬ人々が乳色の死衣を着て行き/その群が朝の霧をつくっていることを(ジュリアン・オセ)」(p63)、「それもよし、屋上の空が/碧い淵を飛びこむ夢に開いてくれれば(ミュゼリ)」(p69)など、魅力的な詩句にめぐりあえました。


 「演劇」は、「詩」以上に知らない名前が続出し、台本を読みもできないし、ましてや舞台を見るわけにもいかないので、皆目見当がつきません。教えられたことは、ロスタンの詩形を用いた「シラノ・ド・ベルジュラック」が大成功を収めたことがきっかけとなって、詩人たちが俄かに劇場に迎えられることとなったこと(p154)、エンヌカンやヴァレブレーグによる目先の賑やかな変化のある妖怪劇や(p162)、ヴォドワイエーの『ペルシヤの夜』、ルイ・ラロアの『ハン宮の悲しみ』など異国情緒の舞台を売り物にした劇(p184)があったことでしょうか。章末のその他大勢の名前の羅列のなかに、ジャン・コクトー、レーモン・ルーセルの名を見つけました。


 さすがに小説家はどこかで聞いたことのある人が多かった。新しい情報としては、ジャン・ロランが色彩と美しい叙述に感服したというルイ・ベルトランの『人種の血』という小説があること、アンリ・ド・レニエを中心として、エドモンド・ジャルーやフランシス・ド・ミオマンドル、ジルベール・ド・ヴォアザン、ジャン・ルイ・ヴォドワイエーらファンテジストが集まったこと。ヴォドワイエーは優美な芸術の愛好家で、伊太利を礼讃する旅行好きというから、まるでレニエをそのまま引き継いだ人のようです。彼の官能的な匂いを湛えた『情婦と女の友』『仮面の恋』やジャルーの詩的小説『シャンパーニュの煙』など読んでみたいと思いました。

 プルーストに対してはかなり辛口の評が笑いを誘うものでした。「若し最大の芸術が最も素朴赤裸々のものであり、最少の言葉で最も多くを喚起すものだとすれば、プルーストの芸術は劣等のものである。彼は選択をしない芸術家である。すべてを言おうとする芸術家である。・・・彼の書物を読み通すのは、よく彼の崇拝者であっても、病気の後の極めて暇のある退屈な時ででもなければ不可能なくらいである。・・・彼の人物、愛する世界なるものは実にくだらぬ滑稽なものである。こんな人間には興味は持てないといいたい種類のものである」(p277)。


 「補遺」は玉石混交ですが、各人のフランス文学への思いが伝わってきて好ましい。(三)(周)という署名のある記事は興味深く読めました。(哲)は廣瀬哲士のことだと思いますが、いまひとつ感心しませんでした。