M-L・フォン・フランツ『夢と死』


M-L・フォン・フランツ氏原寛訳『夢と死―死の間際に見る夢の分析』(人文書院 1989年)


 ユング派の精神分析学者が、死に関連した夢について書いた本。死ぬ前に見る夢の話が多くて気分が沈んでしまいました。全体の印象からいえば、かなり怪しげな本という感じです。この本もブッキッシュなところがあり、ユングや同時代の学者の本はもちろん、古代の呪術書とか錬金術のテキスト、現代物理学(ニューサイエンス)の学説がよく引用されています。とくに、ギリシア・エジプトの錬金術の最も古いテキストと言われる紀元1世紀の「コマリオスのクレオパトラとの対話」がベースとなってよく引用されていました。

 ユングはまともに読んだことがありませんが、著者はユング教信者のような印象があり、神秘主義の思想に近いものを感じます。あまり論理的な説明がなく、非科学的な思い込みがすぎるような気がします。自分で悟って得た思い込みならともかく、他人の思い込みに付き合わされるのは勘弁してほしい。例えば、夢の解釈にしても次のようなものです。夢に出て来た「処刑されようとしている友人」を「彼の中の極度に若いままに残されたいつまでも具体的な性的アヴァンチュールを追い求める一面を象徴している」(p125)とか、夢の中で乗った「8番の市電」について「8は数の象徴学では永遠」で、「錬金術では8は成就の数である」(p196)と言ったりしています。あまり説得力のある説明とは思えません。

 ということで、同感できる部分は少なかったですが、いくつか知らないことや面白い指摘がありました。
①古代の人々は死者の体をまだ生きているかのように扱い、しばらく家に留めたり、また屍体に食事を食べさせようとしたりした。その後、屍体に代わるものとして、死者をかたどった一種の人形ないしは象徴的造型物を作るようになった。

②死者の居場所も、当初は墓の中の屍体から離れて考えられなかったため、死者の国は埃と蛆虫で一杯で、冷たく湿って暗いという見方が広く行きわたっている。中国では、死者は、家の下を流れる地下水の中に生き永らえており、先祖は子孫の中に生き返ると考えていた。

③西洋では、植物のイメージの中に、生死の対立の彼岸にある循環する生命過程の永生が考えられているが、仏教では、根こぎにされるはずの大根の図が、輪廻からの決定的な解脱の象徴として使われている。

④結婚する夢が実は死を意味することがある。男なら女性、女なら男性が、生命を奪う悪霊として、または、よりよい世界に引入れようと出迎える恋人として、夢に現われる。古代ギリシアでは、墓の一番奥の棺の部屋が、タラモス(花嫁の部屋)と呼ばれていたという。

⑤近づきつつある死が何かのイメージで現われることがある。侵入者としての無気味な「他者」であったり、狼や犬の動物であったりする。今でも、ドイツとスイスの民間信仰では、黒い犬に出会うのは死の報せとする言い伝えがある。死に瀕している者を連れ去る他者は、先に死んでいる親戚、配偶者、最近死んだ知り合いとして現われることが多い。

⑥死にかけて生き返った人の体験には、光が出て来る話が多い。「信じられないほど明るい光が近づいてくるのを見ました・・・その光は、そもそも人間とは見えないのに、人間的な個性を持っていました」とか、「光の手から一本の手が私の方に伸びてくるのが見えた・・・手を掴んだ。そうすると自分が持ち上げられ・・・振り向くと、自分の体がベッドの上に横たわっているのが見えた」とか。


 光のイメージも美しいですが、ほかにも不思議なイメージがありました。  
民衆の言い伝えで、牧師館を建てようとしたとき、「そこに葬られていた屍体のちょうど心臓のところから生え出た百合が地上に現われた」という。百合については、ある聖者が祈っていると、「口から何とも言えぬ良い匂いの白い百合が生え出して、天に届く幻覚を見た」という文章があった。

戦場で倒れて死にかけた兵士の見た夢。「私は大きい石を見つけてそれを裏返した。それには重さがなかった。裏には大変きれいな水晶が一杯ついていた。それらはドームのように並んでいた。私は大変嬉しかった」。

 ウソかホントか、変なエピソードが語られていました。
童貞のままの詩人アンデルセンは、死に際してあまりに露骨にみだらなことを口走ったので、居合わせた人は部屋から逃げ出すほどであった/p44

トマス・アクィナスは・・・修道僧たちに、雅歌、西欧の伝統におけるたぶん最も美しい聖婚の描写について説明しようとしていて、恍惚のうちに死んだ/p69