久野昭の二冊

  
久野昭『死に別れる―日本人のための葬送論』(三省堂 1995年)
久野昭『異界の記憶―日本的たましいの原像を求めて』(三省堂 2004年)


 久野昭の著書は、学生の頃に『魔術的観念論の研究』を読んで以来、何冊か買い集めましたが、難しそうなので読まずに積んでおりました。今回、そのなかに、他界に関連した本を見つけたので、読んでみました。哲学の分野の人ですが、国文学者か民俗学者の本かと思えるぐらい、日本の神話、説話や歴史の話が出てきますし、歌の引用が多く、情感の人であることも示しています。哲学者の片鱗は、かろうじて、『異界の記憶』の各章の冒頭のギリシア哲学の話題や、途中のリズム論にうかがえる程度です。

 二冊は、相互に関連したテーマを扱っています。『死に別れる』が、生者にとって死がどういうものであるか、死者を葬送するとはどういうことかを、生者の立場から見ているのに対し、『異界の記憶』では、日本人が死の国である異界や魂をどう考えて来たかを、旅や風という移ろうものをキーワードとして、第三者的に考えています。本としては、『死に別れる』がきちんと整理されている感じがするのに対して、『異界の記憶』は、記述に重複が多く、雑然とした印象を受けました。

 とくに、『死に別れる』は、娘さんが30代で癌にかかり闘病生活をするのと並行して書かれており、亡くなったその日にあとがきを書き終えるという壮絶な体験に裏打ちされていて、文章に鬼気迫るものがありました。死をテーマにした本の中でも、特異な位置を占めるものと思います。著者は、戦国時代に、18歳で戦死した息子の供養のために、母親が熱田の精進川に橋を架け、擬宝珠に「この書付を見る人は、念仏申し給へや」という銘文を記したことを紹介し、「足を留めてこの言葉を読み取った旅人の胸に沁み込んだであろう鎮送の思いを、私たちは追体験すべきだろう」(p143)と書いていますが、この本を書くに際して、その母親と同じ思いが、著者の心にあったのではないでしょうか。


 私なりに主要な論点と思えたのは、『死に別れる』では、
①人は死ぬことで、突然生の世界から見えなくなり死の世界へ隠れてしまう。明らかに二つの世界の間に厳然とした境がある。この世に残された者は、断たれた繋がりを何とか視覚的に保とうとし、死者のよすがとして何か見えるものに思いを託そうとする。それが山であったり、形見であったり、遺児であったりする。

②そして火葬の煙を死者の霊魂と見る。現世を今去っていく者の心が最後に見せてくれる可視的な形姿として、野辺の煙ほど、諸行無常の現世を象徴するものが他にありえたであろうか。

③悼むは心が傷むのである。禅坊主が法話を嵌め込んでさらりと悟ったような「いたみの詩」を作ってみても、そんなものは悼みではない。死を前にした不条理感は残された者を愚痴らせ醜態を演じさせるほどのもので、誰も避けることはできない。死という宿命は、神意とも言える人の力を大きく超えた意志による間引きと考えていい。

④死者を送る行為には境界がある。どこかで別れなければならない。それは旅人を送るのに似ている。現世に生き残った者が死者を他界まで送り届けることはできない。

⑤他界の表象や観念は、葬法と無縁ではありえない。土葬、水葬、風葬と、それぞれに死体の状態は異なる。水葬の場合、「膿沸き蟲流る」というような凄惨な状態から受ける衝撃と嫌悪に身震いすることもない。黄泉国が土葬に関連するように、海神の宮には、おそらく水葬がその影を投げていると見ていい。

⑥死者を送り出そうとしている他界そのものが、送る者の心を離れたところに客観的に存在しているわけではない。それは本来形を持たない心の内奥にある。


 『異界の記憶』では、
①かつて旅とは結界を破ることでもあったに違いない。旅に出ようとする者との別れを惜しんでの宴は一種の葬送儀礼で、辻、峠まで見送ったのは一種の野辺送りではなかったか。逆に、どこからか訪れた旅人を手厚くもてなしたのは、あの世からの来訪者であるまれびと神への饗応だったのではないか。

②浦島太郎の玉手箱の玉は魂の言い換えであり、魂出箱であった。箱を開けた途端に、煙にも似た魂が彼の肉体の中に戻ったわけである。そのとき、彼の身体は現世の時間秩序の中に組み込まれてしまい、大量の時間差が一挙に襲い掛かって、「膚も皺みぬ・・・髪も白けぬ・・・気(いき)さへ絶えて」(『萬葉集』)ということになった。

道教的な神仙境であった蓬莱山が、日本的な海若(わたつみ)と結び付き、それが海の彼方にある常世としての龍宮の観念に連なり、そのことが浄土教という救済宗教へのひとつの回路をも用意することになった。

④古代日本人は恐ろしい自然霊を山に追い込み、閉じ込めようと注連縄を張った。先ず自然霊を鎮めて統御しようとする巫術があって、儒教や仏教を自らの内に採り入れながら神社神道へと発展していった。その過程で、儒教が祖先崇拝、仏教が偶像崇拝をこの国に根付かせると同時に、古いアニミスティックな自然崇拝は後退していった。

⑤日本には、古くから境の神がいた。その塞(さえ)の神が、中国大陸の行路神である道祖神に擬せられ、さらにはその道祖神への信仰が地蔵信仰と習合してきた。

⑥古代日本人が風を直接に表す言葉は「し」で、風の神を指す「しなつ」「しなとべ」「しなど」など複合語の中にだけ見られる。方角を表わす「にし」・「ひがし」や、「あらし」の「し」も風を表しているのだろう。

⑦日本文化の歴史は、一方通行的に海外から流れ込んできた文化の受容と、その日本的な変容の歴史だったと言っていい。海外文化の流入が連続的なものでなく休止を含んでいたことで、その休止期間が在来の文化との衝突と妥協を繰り返しながらこの国の風土に根付いていく余地を残してくれた。