赤祖父哲二『異界往還』

 
赤祖父哲二『異界往還―文学・宗教・科学をつなぐもの』(夢譚書房 1998年)


 赤祖父哲二の本は、これまで『イメージ・ウォッチング』と『日本のメタファー』の二冊を読んでいて、二冊とも◎の評価がついてますが、25年以上も前の話で覚えておりません。しかも読書ノートを取っていないころのものなので探りようもありません。何となく私のテイストと合ったという印象だけ残っています。この『異界往還』は、科学と宗教と近代文明の関係を広く歴史を見渡しながら考察しています。私は昔から、梅棹忠夫『文明の生態史観』など、大風呂敷を広げつつオリジナルな考えを述べた本を好んでいて、この本も、独創性は少ないかも知れませんが、世界全体を大きく俯瞰しようとする意志が感じられて好きです。

 ただ、あまりに守備範囲が広く、また古今東西の文献からの例証が頻出し、しかも当然知っていることとして詳しい説明が省かれているので、読者を蚊帳の外においたまま著者がひたすら自分ひとりの世界にこもって自問自答しているように感じるときもあります。著者の説が間違っているかどうかはともかく、問題意識の強さや視野の広さだけはよく分かりました。


 ここで問われているいくつかの問題を、理解できた範囲で自分なりに整理してみますと、著者はまず、西洋近代に関する一般的な解釈の仕方に対して、いくつかの疑義を呈するところから出発しているようです。
①「近代」という時代設定を、検証することもなく紋切り型のように持ち出す風潮はどうか。とくに、苦闘の上にその概念を勝ち取った西洋ならまだしも、日本において「近代的自我」を必要以上に理念化し、それを異なる文化風土に移植しようとして、実態との齟齬に苦しむのは馬鹿げている。

②二分法の考え方は、例えば、一神教多神教、自然・超自然というように、不毛に二分してしまうのはどうか。二分法は物事のいくつかの側面を単純に二分するだけでなく、二分を固定化してダイナミックな運動態を無視してしまう。


 そして、近代社会を形成するにあたって、宗教、とくにユダヤキリスト教プロテスタントの犯した罪の大きさを語ります。
①古いヤハウエの天地創造説では、「無からの創造」も唯一神の存在も主張されていなかった。唯一神は捕囚期の祭司たちの創造になる。旧約聖書には土着の呪術的なものが滅ぼされる記述が多く、教義を形而上学化する意図が見える。ユダヤキリスト教は人間の異界往還を禁じることで、豊穣な生みの力を追放してしまった。

カトリックはまだマリア信仰を許容し、ゲルマンの土俗と妥協していたが、プロテスタントになり、脱魔術化が促進されてしまった。プロテスタントの改革は、信仰を教会の儀式や制度から切り離したことにより、無神論者発生の道を開き、聖書の解釈を個人に任せ、物語として読むことを許した。


 近代社会をもたらした自然科学のあり方についても、キリスト教と関連して、次のような性格を強調しています。
①自然科学が、魔術から解き放たれて、純粋な合理性を獲得したというような理解はまったくの間違いであり、ルネサンス以後に科学が教会にとって代わった、つまり、科学は新種の宗教になっただけである。

下村寅太郎の言うように、魔術の威力を恐れたキリスト教思想が、魔術を排除し、その代わり魔術を人間自身が遂行しようとしたわけで、現代人も結局は原始人と同じということである。

③今日の環境破壊をもたらすことになった科学技術の大本にはキリスト教の自然観がある。キリスト教アニミズムを破壊し、人間による自然の搾取を認めた。さらに、人間が神に似せられて作られたことを、人間は中身においても似ていると錯覚し、自らを全知全能と思い込んでしまった。


 そして近代以降の産業社会とそれを支えている思想について、次のように厳しく批判します。
ルネサンス以降の人間中心主義とは、神の国を地上に実現するための飽くなき欲望の追求であった。とくに18世紀末からの産業主義の貪欲が、進歩という旗印によって醜い現実を隠してきた。

②当初は、神と人間と自然の三つ巴の関係であったが、そこから神が消え、人間と自然の関係のうち人間が自然を支配する関係だけが残され、人間の傲慢を助長させた。

③日本の場合、幕末の黒船ショックで劣等感に取りつかれ、進歩という名の貪欲に身をこがしてきた。とくに第二次大戦後は自然愛好国民という自負を投げ捨て、多量消費の経済に狂奔し自然破壊に手を貸した。人々は死までを病院や葬儀業者の管理に委ね、異界への往復という古来の美風を忘れてしまった。


 それでは、著者はそれに代わって何を賞揚しようとしているのでしょうか。
①ひとつは、農産的自然、アニミズム、汎神論的世界:系譜をたどれば、中国の盤古神話など世界各地の天地創造説に始まり、古代ギリシアの自然概念、ルネサンス期の新プラトン主義が宇宙創成の母体と考えていたカオス、ルネサンス以後であれば、異端として処刑されたジョルダーノ・ブルーノの「農産的自然」の考え方、汎神論へ接近していったワーズワースなどロマン派の自然観へと続く。

②言い換えれば、民俗学的カオスの世界:日本では草葉の蔭に祖先の霊が宿るという信仰があり、かつて異界との往復譚が豊富に存在していた。それが、明治以降、現人神(あらひとがみ)や国家神道など上からの宗教によって排除されて行った。底辺に生き続けてきた民俗信仰は、かろうじて柳田や折口らを生み出すことになった。

③中世の多元的世界:世の通念に反して、中世と近代の間には断絶はない。中世こそ近未来のあるべき多元的世界の見本である。

④往還という言葉に現われているダイナミズム:現世と異界の間の往復のあり方の相違が文化・文明に差異をもたらしており、近代科学の迷妄から醒めるには、遠い宇宙でなく身近にある異界との往還の習慣を取り戻す必要がある。また、知覚と観念を二分化するのでなく、両者がダイナミックに干渉し合う中間領域を考えるべきである。


 感想三題。
 最近のプーチン習近平金正恩の振る舞いを見ていると、近代とか、法(条約)とか、合理性などというものは一体何だったのかと思ってしまいます。現実に跋扈しているのは野蛮な原始人で、そうした理念は所詮幻だったということになります。こうした考えも理念と現実を二分法で考える悪癖でしょうか。

 科学の発展が、原子力や環境破壊、生命倫理などの壁に当たっています。そこで近代科学をあっさりと否定したくなるのはやまやまですが、現代人が科学の作った世界のなかにどっぷりと身をおきながら、私たちの祖先が、その時代その時代に必死になって考え、血と涙で築きあげ、そして恩恵を施してきた科学の成果をゴミ屑のように思うのは傲慢ではないでしょうか。科学の壁は科学自身によって乗り越えなければならないというのが私の考えです。もしそれができなければ人間は愚かな生物だったというだけの話です。科学が専門家の手に委ねられるようになって、一般人の手の届かないところへ行ってしまい、一般人は科学が作り出した与えられた環境のなかで生きるしかすべがなくなりました。それだけに科学の専門家の責任は重いということになります。

 ロマン主義には、産業社会への反発、自然や風景美の発見、古代・中世回帰など、著者の言うようなカオス的側面もありますが、一方、個人の苦悶や感情の発露を表現し、自我を特別なものとして分離させたのもロマン主義です。しかし個別の自我というのは幻想に過ぎず、人間が言語を持つ生物であるということが証明しているように、もともと集団的な営みのなかに生きる存在だと思います。西洋の近代社会において個別の自我が称揚されるようになったことが、間違いの始まりだったのではないでしょうか。