多田智満子の詩集②

      
多田智満子『川のほとりに』(書肆山田 1998年)
多田智満子『長い川のある國』(書肆山田 2000年)
多田智満子『封を切ると』(書誌山田 2004年)
多田智満子『遊星の人』(邑心文庫 2005年)                                   


 前回に続いて、多田智満子の俳句や短歌を含む、後期の詩集を読んでみました。すべて再読です。以前読んだのは、『川のほとりに』が新刊で出た直後の98年、それ以外は、多田智満子が亡くなった2003年以降2006年までに読んでいます。この4冊は、『遊星の人』だけが短歌作品で、「水烟」という旧歌集も再録されています。また『封を切ると』の付録に、遺句集「風のかたみ」が、葬儀の式次第と弔辞、謡曲「乙女山姥」とともに収められています。

 全体の印象から言うと、粕谷栄市と同様、後期の詩集からはやや脱力した感じを受けました。それは、言葉数が少なくなってるように思えること、童謡風の調べがあったり、駄洒落が頻発したり、エジプトやメキシコへ行ったときに作られたと思しき旅の詩があったり、麻雀をテーマにしたものや(葬儀での報告によると家族麻雀をたまにしていたらしい)、骨折したときの報告、締め切りに追われることなど日常生活を題材にしたりと、自在です。


 この4冊のなかでは、『川のほとりに』が秀逸な詩集。この川が、三途の川もしくはアケロンを意味しているように、全体に幽冥界の雰囲気に浸されています。冒頭の死者からの「お誘い」に始まり、「木枯らし」、「蝶のかたち」、「さびしい土地」、「栽培」、「薤露歌」、「川のほとりに」、「秋の谷」、「川」が冥界テーマ、「桃源再訪」は桃源テーマと冥界テーマが合わさったかたち。その他も、「玄牝あるいは羊の谷」、「新月の夜の物語」、「ユーカリの葉を噛みながら」、それに古代王朝を舞台にした数篇が、異界テーマの作品として挙げられると思います。

 なかでは、「虚空から死者の裏声が近づいて」「わたしもまた一つの引用句」となり「ひとつの死語となりつつある」という「木枯らし」、川のほとりで魂が運ばれて行くのを見ているが私はどちら側の岸に居るのかと問う「川のほとりに」、かつて訪れた桃源を再訪してみると墓原の村となっており元に戻るべきかと振り向き虹を見る「桃源再訪」(芳賀徹の『桃源の水脈』でも取り上げられていた)、夢師が王に夢で見た現代文明社会の様子を語る千夜一夜物語風の「新月の夜の物語」、川を越えて知らない駅で慌てて降りるとそこに死んだはずの愛犬が待っていたという「川」、どんどん大きくなる樹に上ると中は巨大な空間となりそこに住みついてしまう「ユーカリの葉を噛みながら」が素晴らしい。


 『長い川のある國』は、おそらく詩人がエジプトへ旅行したときに書きとめたものが元になっていると思われますが、口語的なのびやかな語り口で、かつ抒情的なイメージが豊か、一行も短く、簡単に書いているようでいて、奥深い作品です。「砂は砂につづく 水は水につづく 時は時に 永遠は永遠に」(題詩)、「川のなかを川が流れる」(p20)、「砂上の足跡は一直線/この明晰な二進法に狂いはなかった」(p37)、「牛の顔は牛の顔からはみ出ていない」(p86)など、ところどころ思弁的で、警句のような鋭い響きもありました。詩集全体が同じ色彩のもとにまとめられて一つの大きな作品になっているのも特徴です。


 『封を切ると』は、多田智満子さんの遺稿詩集。加齢とともに、若い頃の凝縮された濃密なイメージの詩行が消え、宇宙的哲学的禅的な詩句境地が深まるとともに、駄洒落を基調とする軽快な詩句が散見されました。なかでは、「薄明の府」が、「人がみな貌をうしない・・・たれかわからぬ」「あの人たちにも/わたしがたれか わからぬ」という岸辺や、「人々は魚の顔をして/ゆらゆらと前のめりに歩いている」という水底の町や、「眠ってはまたふっとめざめる」「柩のなかにあるよう」な夜など、うすらぼんやりした境地を歌っており、異界テーマの絶品。ほかに、死期を意識したような「半世紀が過ぎて」がありました。最後に収められている白石かずこに捧げられた「われらの裡なるイナンナ」は死の直前の詩と思われますが、ともに女性詩人として戦後の詩壇を生き抜いてきた自らをイナンナ(イシュタル)になぞらえ、詩の女神として冥界下りの覚悟を歌った絶唱です。


 『遊星の人』と『風のかたみ』に収められている俳句や短歌には、『封を切ると』の詩作品と同じ感興を歌ったものがいくつかありました。例えば、「白牡丹の襞の奥へとはなむぐりもぐりもぐりて恍惚の死や」と「はなびらの波くぐりゆくはなむぐり知らずや薔薇は底なしの淵」の二つの短歌は、「楽園」の「いちじくの実がふくらむと・・・ハナムグリがもぐりこむ」という詩句に呼応しており、またこれは「薔薇宇宙」の世界にも通じています。「沼雲の影をたのしむ大鯰 泥にねそべり髭をたのしむ」は、「池ありて」の「濁りは池の悟りなれ/泥にねて/なまずは髭をゆらゆらと」という詩句と共通の風景を歌っています。

 異界テーマの句や歌が数多くありました。そのなかで、私のお気に入りを引用しておきます。
来む春は墓遊びせむ花の蔭

螢のせて冥き秤は傾かず

流れ星我より我の脱け落つる

がらんどうの夜汽車明るく盲ひたる

剥き了へて唯臭き無となりにけり

闇に生れ闇に死ぬ鳥の骨白き
(以上、遺句集「風のかたみ」より)

身のあはひ風するすると抜けてゆく半身は海半身は山

秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも

土といふ闇に白髭ふるはせて悲しみの根はひろがりやまぬ

鍵穴を失ひし鍵にぎりしめ家をめぐりてさまよふは誰(たれ)

はなびらの波くぐりゆくはなむぐり知らずや薔薇は底なしの淵
(以上、『遊星の人』より)

凹面鏡の曲率もてる圓き匙にわが眼すくひてのみくだしたり

銅鏡一面ひそかに光る玄室にわれわが骨と向き合ひて坐せり

この悲傷は他界の光しぐれふる波止場にしばし夕陽ながるる

やがてわれを焼くべき火あり野の果に立ちのぼりたる煙ひとすぢ
(以上、舊歌集「水烟」より)


 これで、長らく続けてきた異界テーマの詩については、いったん終りとします。次回からは、夢についての本。