多田智満子の詩集①

              
多田智満子『薔薇宇宙』(昭森社 1964年)
多田智満子『鏡の町あるいは眼の森』(昭森社 1968年)
多田智満子『贋の年代記』(山梨シルクセンター出版部 1971年)
『多田智満子詩集』(思潮社 1972年)
多田智満子『四面道』(思潮社 1975年)
多田智満子『蓮喰いびと』(書肆林檎屋 1980年)
多田智満子『祝火』(小沢書店 1986年)
『定本 多田智満子詩集』(砂子屋書房 1994年)


 多田智満子は、エッセイ、詩、翻訳の3つの分野で活躍された方ですが、エッセイと詩には深いつながりがあり、『魂の形について』、『鏡のテオーリア』や『夢の神話学』など、現実を超えたものに対する興味が、詩作においての重要な要素となっています。学生の頃から『鏡の町あるいは眼の森』など彼女の作品を愛読していて、社会人になってから古本や新刊で少しずつ買い求め、入手困難な初期の詩集『花火』と『闘技場』以外は、エッセイ、詩、翻訳すべて所持しています。今回はそんな蔵書自慢も含め、彼女の異界をテーマにした詩を中心に、前期と後期2回に分けて書いてみたいと思います。1回目は1994年刊までの上記詩集。

 今回、『四面道』、『蓮喰いびと』、『祝火』を読むのは初めてでしたが、他の詩集も読み直してみました。『花火』と『闘技場』は、『定本 多田智満子詩集』に拠りました。異界テーマを直接取り上げた作品は、詩集単位で言えば、『鏡の町あるいは眼の森』、『四面道』、『祝火』、『川のほとりに』がそうした作品が核になっていて、これらは多田智満子の詩集では最上のものではないでしょうか。他の詩集にも、いくつか異界をテーマにした詩が収められていますので、言及したいと思います。

 ただ、異界テーマの詩群については、これまでの入沢康夫寺山修司、高柳誠らと異なり、具体的な描写は少なく、神話的夢幻的な作品が多くて、なかなか論評しづらいところがあります。神話や古典文学の造詣が深く、神話的エピソードを注釈なしにさりげなく挿入して、幻想的な世界を作りあげているところが、多田智満子の詩の大きな特徴のひとつです。


 『鏡の町あるいは眼の森』は、4つの詩篇からなりますが、なかでは「眠りの町」が出色。ギリシア神話の眠りの神ヒュプノスの王国を思わせる部分と、「考古学者の一団がくる」廃墟の町のイメージが重なっていますが、「一人の王が支配している」「円形の城壁のなかに水をたたえた町」の架空の町の幻影を描き出しています。そこへ訪れる者は、「自分の名の記された古い墓碑を眺め」、住人たちは、「笑うと歯が抜け落ちるので、口もとをおさえてほほえむ」と言います。次の一篇「道たち」は、後の「四面道」を思わせる変化(へんげ)する道がテーマの詩群。タイトルの「鏡の町あるいは眼の森」は、眼と葉脈と森の樹々の枝の網目、ひび割れる鏡、神経網、掌の線模様が響きあう作品で、「私に肖せて 無数の私がつくられている」町を舞台に、鏡の比喩が繰り広げられています。


 『四面道』は、夢の記述を装った散文詩が11篇収められています。なかでは、短篇小説とも言える最後の一篇「四面道」が最高作。夢のなかに、幼い頃暮らした荻窪にあった四つ辻が頻繁に出てくることが語られた後、犬の死骸や水死者の腐敗など、死のイメージが描かれますが、それは夢のなかの四つ辻で出会うのが懐かしい死者ばかりということの伏線になっています。とりわけ死者たちのなかで、幼かった私を可愛がってくれた女中民やの悲しい思い出が最後に綴られて、この作品を痛切なものにしています。この作品の街路の網の目と淋巴管の織りなす網の目との照応や、道が輪郭を崩して袋小路や迷路になったりするイメージは、9点の挿画が掲載されている村上芳正のハンス・ベルメール風の絵と呼応している気がします。

 『四面道』の他の詩では、家中を駆け回った猫の存在が連続したものかと問う「刹那滅の猫」、岐れ道の一方を選ぶことの不安を語る「道のゆくえ」、どんどん狭くなる道を歩き続ける「二河白道」に、異界テーマの片鱗があります。「二河白道」の「二つの大河に挟まれた細長い土地」を川上に向かって歩いて行くと、道が「みるみるせばまり、行く手は白い絹糸のように細くなり」「その白糸の遠い彼方の端をくわえて、一羽の烏が虚空に飛び立つのが見えた」(p69)という美しいイメージや、「首輪をはめた夢」の「ベッドに入って、私が眠りに落ちるのを、私は横目でうかがっていた。熟睡したのを見すまして、自分の首から首輪をはずし、それを、他人の顔してねている私の首にそっとはめた」(p38)という奇怪なイメージが印象的。


 『祝火』は、全編、異界に通じるような作品で、「桃源」、「初夢」は桃源テーマ、「蛍」、「谷川の道」、「庭の女」、「水源」、「そらまめ」が冥界テーマ、「糸の女」が迷宮テーマと、いろんなパターンが見られました。私のとりわけ好きな作品としては、みかんのなかに入り込み老人と碁を打つ桃源郷と壺中天が合わさったような「初夢」、浄土か冥界かを思わせる静謐な庭を描いた「庭の女」、「どこかで甕のわれる音がして/長い階段を水がくだってくる」(p36)という象徴詩としても優れている「月長石」、少年が碁を打つ仙人に懇願して寿命の数字を書き換えてもらう中国古譚風の「寿命」、闇の中にほのかに光る半透明の雪花石膏の水盤に夢のなかで憧れる「星の水盤」。

 次点としては、「遠い昔が夕焼けている」(p11)というフレーズで終わる「桃源」、死者の魂が蛍ならあの蛍は私かと問う「蛍」、そら豆のなかに冥界を見る「そらまめ」、博物館のなかで石像たちが婚姻する「石婚歌」、住人の居ない町で犬に憑りついたダニがどんどん大きくなる「不在の町」、海龍王寺の塔のなかで玄昉と法華寺十一面観世音を幻視する「幻術の塔」、アクアマリンの水源にようやく到達すると眼からアクアマリンの涙がこぼれる「水源」があげられます。


 処女詩集の『花火』では、すでに多田智満子の生涯のモチーフである鏡や碑銘、魂という言葉が顔を覗かせていますが、異界や架空都市をストレートに思わせる詩篇は見当たりません。次の『闘技場』では、死人を葬らないという女人の国を描いて「ランゲルハンス氏の島」を彷彿とさせる「遠い国の女から」が、まさしく架空の国テーマ作品。「矮人物語」も、語り口調が架空物語的な散文詩で、最後は、矮人の肩からまた新たな矮人が生えサボテンのような増殖が鏡の中で生じ、鏡面に罅が蜘蛛の巣のように広がるという多田智満子らしい幻想譚。ほかに古代ローマの剣闘士が戦った劇場の廃墟が舞台の「闘技場」ⅠⅡⅢ、船が擬人法で語る「船のことば」が、異界テーマに触れるものと思います。異郷テーマからは逸れますが、「すべて美しいものは風に描かれてある」という「映像Ⅱ」のフレーズはむかし頭の中で鳴り響いていました。


 『薔薇宇宙』は、「夏のはじめとおわりの唄」が脚韻に挑戦した面白い試みですが、何と言っても、最後の一篇「薔薇宇宙」が、自らLSDの実験台となって幻視した薔薇模様が濃密に描かれていて圧巻。「微視的な点や線が、それぞれ充実した一つの世界であり、それゆえにここにおいては大きさと密度とがまさしく反比例する」という冒頭のニコラウス・クザーヌスの言葉のとおり、薔薇の内部で色彩の階梯が無限に増殖していく様が、竜巻、蜘蛛の巣、とぐろ巻く蛇、珊瑚虫の大群、螺旋階段のイメージとともに語られています。この本も、村上芳正の挿画が函面の絵を含め5点添えられています。『贋の年代記』では、「子どもの領分」が子ども向けの遊戯施設を題材に、別世界を構築しているという意味で、異空間テーマに繰り入れることができるように思います。


 『蓮喰いびと』にも、冒頭から、蓮の実を食べると忘れるというロトパゴイ人の国や、柘榴を口にしてしまい冥界に留まらざるを得なくなったペルセポネの話、後姿しか見せないオルペウス(ということは作者多田智満子はエウリュディケーということか)など、ギリシア神話の挿話がさりげなく出てきます。異空間テーマの詩としては、『贋の年代記』の「子どもの領分」の続きがあり、また「失われた王国」では、唯一残された王の系譜のイメージを、葉脈、根、そうめん、運命線、蛇行、渦巻く髯、唐草模様というように展開させながら、かつての王国に思いを馳せており、『眠りの町あるいは眼の森』の続篇的な位置づけができるように思います。