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多田智満子『花の神話学』(白水社 1984年)
多田智満子『森の世界爺(せかいや)―樹へのまなざし』(人文書院 1997年)
多田智満子さんの詩はもちろん好きですが、散文についても『鏡のテオーリア』『魂の形について』以来、その暗喩に満ちた様々な形象がちりばめられた文章のファンです。今回は花と樹についての二冊を読んでみました。
二冊とも神話や文学の造詣があちこちにちりばめられていますが、後に書かれている『森の世界爺』のほうが日本や中国の逸話の比重が増しており、またご自身の経験にもとづく話の比重が増しています。
共通して感じられるのは、どうも智満子さんは美少年がお好きなようで、男同士の同性愛に言及した文章が目につきます。
『花の神話学』では、ギリシア・ローマ神話や聖書を中心に、花への変身譚や奇蹟譚、奇譚が数多く紹介されていますが、それぞれの具体的な物語のイメージが豊かで、幻想的な魅力を放っています。各章のテーマにふさわしい話が古今東西の文献より引用されていますが、おそらくその数十倍の厖大な引出しがあるのだろうと、驚きの念を禁じえません。また同じ神話でもいろんなヴァリエーションが紹介されています。
この本の冒頭で、古代人にとって樹木が「偉大な神性の顕現そのもの」であり、自然のなかで「生起する万象の時々刻々の変容は、ことごとく神のドラマ(p13)」であったことを確認し、樹木や花々と神話との親和性を指摘しています。
また地中海周辺では、柘榴やいちじくがその形状や性質から、豊饒な母性原理を表わすのに対して、中国では、空桑がやはり形状から子宮的な母性を表わす聖樹となっていることに言及したり(p189)、アプロディーテーやウェヌスと薔薇との関係が、そのままキリスト教伝説で聖母マリアに受けつがれていることを指摘する(p93)など、スケールの大きな視点もこの本の魅力です。
「後記」で、この本の編集を鶴ヶ谷真一さんが担当されていることを知り、鶴ヶ谷さんの文章が多田智満子さん同様豊かな味わいがあることに納得がいきました。
『森の世界爺』では、はじめ「世界爺」とは何のことかよく分からなかったんですが、読んでみて「セコイヤ」の日本語表記だということが分かりました。
ここでも古代ギリシアの変身譚に触れ、花に生まれかわるのはもっぱら美少年たちで、少女たちはミュルラ(没薬樹)やダフネ(月桂樹)のように樹に変身を遂げる(p51)という特徴を指摘しています。
『花の神話学』と内容が重複しないように書かれていますが、唯一ユグドラシルの樹だけは重複が見られます。樹の話題ではユグドラシルの樹は欠かせなかったものと見えます。
本当に木の好きな人らしく、自分の庭に育つ木のことを愛情深く紹介していますが、その上を行く庭好きのお姉さんが登場したのには驚きました。しかも作者以上に超然としたところがあります。こんなお姉さんがいたんですね。
身辺の話が多いだけに、「さくらですがな」とか「たんと実が生るよってに」という大阪弁が出てきたり(p144)、カリフォルニアに住む息子さんや英語に堪能なその妻、五歳の孫が登場するなど、普通に生きている人だったという親しみが湧きました。
下手な印象はこれくらいにして、印象に残った文章を引用しておきます。
古代人たちは・・・古いから年老いているのではなく、逆にわたしたちよりも数千年も年若かった。感受性もみずみずしく、幸福で不安な無知のなかで、自然の事物につねに驚きと畏敬の念をもって接していた/p12
みるみる足は土におおわれて根となり、手は枝となり、胴は幹と化した。ミュルラは没薬の樹となったのである。・・・幹に手をかけ、呪文をとなえると、たちまち樹皮が裂けて、中からいさましい産声をあげて赤児がとび出した・・・この子こそアドーニスであった/p26
すべての死者を体内にとりこむ死の女神と、産生保育の慈悲ぶかい女神とは、大地的な太母(マグナ・マーテル)の陰陽二つの相であって、冥界の暗い女王ペルセポネーと大地母神デーメーテールとの一組の女神に照応するものであろう/p45
相手のことばをくりかえすことしかできないエーコーと、水鏡の像に魅せられたナルキッソスとが、この物語のなかに平行して現われるのはなかなかに意味深いことのように思われる/p53
タンホイザーは恋の女神ウェヌスと逸楽の生活をすごした後、教皇ウルバヌスの膝下に罪障の消滅を訴える。・・・教皇はいう。「・・・万一神が汝を許したもうことがあれば、わたしのもつこの杖が緑色を帯び、花をつけるであろう。」詩人が悄然と立ち去って三日の後、その杖が突如として花を咲かせた。教皇は神慮に驚き、すぐ人を遣わしてタンホイザーのあとを追わせたが、もうその姿は見えなかった/p108
蓮喰いびと・・・/部下のうちで、この蓮の、蜜みたように甘い果実(このみ)を啖(くら)った者は、/みなもう帰ろうとも、報告をしに戻ろうとも思わなくなり、/ただひたすら、そのまま蓮の実喰いの族(やから)といっしょに実を貪(むさぼ)って、/居続けばかりを乞い願い、帰国のことなど念頭にない有様(『オデュッセイア』呉茂一訳)/p166
太陽を追いかけようとした男(巨人)がいた。・・・彼は西に傾く日輪を追って地の果までひた走りに走り、禺谷(日の沈む谷)でようやく太陽に追いついた。しかし喉の渇きにたえきれず、河渭つまり黄河と渭水の水を呑み干してまだ足らず、千里四方の広大な大澤(だいたく)という湖まで走ろうとして、行き着かぬうちに路上で渇き死にした/p207
以上『花の神話学』より
人は木の葉とちがって、老衰死の前に最後の紅葉の華やぎを見せることは稀である/p70
木の実をひろうだけならば自然は傷つかない。そして木の実をひろうためには低く身をかがめて大地に手をふれなければならない。これはほとんど拝跪の姿勢である。私たちは知らず知らずのうちに大地を拝みながらその恵みをいただいているのである。ここには文明の思いあがりと正反対のなにものかがある/p83
橘の実のなかに仙人が相対坐して象戯をさしていた/p98
木には樹霊が宿る、というのは洋の東西を問わぬアニミズムの思想だが、「葉守の神」とはなんと優に優しい大和ことばであろう/p141
ヒンドゥー教の壮大な世界蓮(ローカ・パドマ)の神話・・・インドの最高神のひとりであるヴィシュヌは、原初の水のなかで大蛇を寝台として眠っていた。四千ユガ(宇宙世紀)の眠りの後、彼が創造の志を起こすと、その意欲は蓮の形をとって彼の臍から成長した。そして蓮が花開くとそこにブラフマー(梵天)が生じ、花の台(うてな)に座して天地万物を造化した/p191
→西村朗の「ヴィシュヌの冥想」はこの情景をもとに作曲したもの。
私もまた願わくば森に入って死にたいと思う。・・・せめて・・・親しい者の夢のなかででも森に入って姿を消したいと思う/p199
以上『森の世界爺』より