この本は大きく二つの要素に分けることができます。ひとつは肩の凝らないエッセイ、もうひとつは本職にかかわる学術論文風の文章。もちろん前者に軍配は上がります。辰野隆の真骨頂は軽い味わいのエッセイにあると思います。
学術論文風の文章というのは、後半の「仏蘭西文学とは」「仏蘭西古典主義文芸」「現代仏蘭西文学管見」の三つで、急に漢字の多いごてごてした文章となったのでびっくりしました。
「仏蘭西文学とは」ではブリュンチエエルの文学史論や二学者のゴオル人論を紹介し、「仏蘭西古典主義文芸」でも、ブリュンチエエル他の「仏文学史」をかみ砕いて自分なりにまとめたといった体のものとなっています。(「ほとんど翻訳に近い(p196)」と自ら認めています)。また「現代仏蘭西文学管見」にしても評者の印象にもとづいた大ざっぱな紹介がなされているだけで、戦前の日本の海外文化受容の見本のような文章となっています。
前半のエッセイでは、35年もカフェに勤めている人気ギャルソンの妻に先立たれた淋しい様子を描いた「エドモン」が出色ですが、他にも「真(ほん)もの(p72)」の革命家を見た「二人のセルビヤ人」や、発作を起こしたてんかん患者を取り囲む群衆の様とその場から逃げだす警官を描いた「てんかん」、辰野隆の誤字をも指摘するあるアジア学者の思い出を紹介した「空瀾先生」など、人間を描いた作品に味わいがあります。
他の「仏蘭西人とは」などのエッセイにおいても、町中で見かけたふとした出来事などが印象深く面白く綴られています。
が、なんといっても、この本では、鈴木道彦氏による「人と作品」がすばらしい。子どものころから父鈴木信太郎のところへ出入りしていた辰野隆に接し、また中学生時代辰野隆の本で読書体験に開眼し、また高校時代には授業も受けたという人ならではの、人柄を愛惜してやまない愛情のこもった解説となっています。
印象に残った文章を引用しておきます。
あの美しい、縹緲たる詩を書くヴェルレエヌが、日常の会話になると、全く下層の労働者か、無頼漢ででもなければ敢てしないような、ひどい、べらんめえ調で物を言うのが癖であった/p45
十九世紀に於ける二大文学様式は抒情詩と小説であった。それは、一方に於ては、ルウソオ以来発達せる個人感情の賜であり、又百科全書から獲得せる哲学的、政治的、社会的成果でもあった/p186
仏蘭西に於ては、古来幾度か世紀病的現象が起こったが、その最大なるものが、十五世紀の百年戦争後のデカダンスと、19世紀初葉、奈翁没落後のデカダンスであるであろう/p201