:渡辺一夫の本、二冊

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渡辺一夫『亀脚散記』(朝日新聞社 1947年)
渡辺一夫『乱世逸民問答(ひかれもののこうた)』(読売新聞社 1954年)

 フランス文学者シリーズで読んでみました。渡辺一夫の本は、以前『へそ曲がりフランス文学』『うらなり先生ホーム話し』と『語学誤学 雑記帖』を読んで面白かった印象がありました。今回も、本に関する文章や、フランス文学にまつわる話はたいへん面白く、「寛容論」あたりまでは納得しつつ読みましたが、正直言ってとくに『亀脚散記』に収められた世相批評には失望しました。

 書かれた時が終戦直後だったためでしょうか、戦前から続く日本の知的状況に対して悲憤慷慨した調子はある程度理解できるものの、それが行き過ぎた印象があり、世相に対する皮肉な見方が出てしまっているのが気になりました。いったん気になってしまうと、そういう目で見てしまうのか、その底にあるエリート主義的な民衆蔑視や、西欧に対する日本の蔑視も窺えて来て、素直に読むことができなくなってしまいました。ロシア賛美も時代のせいでしょうか。

 こうした世相時評を書いている人と、リラダンについて翻訳したり研究をしたりした人とが、同じ人だとはとても思えません。

 と悪口ばかり書いているようですが、『亀脚散記』のなかでも、ヴァレリーマラルメに対する敬愛の情をつぶさに見て報告した「ヴァレリーの講演の思い出」、日華事変の最中に異国で友となった中国人を語った「滞佛雑記―ミスタ・チャンの話」、リラダンの「未知の女」「未来のイヴ」に登場する奇妙な女性たちを描いた「理想の女性(ヴィリエ・ド・リラダンによせて)」、ラブレーとフランドルの画家たちの近親性を指摘した「妖怪曼陀羅」、それに古本愛好者にとっては貴重な情報に溢れた「セーヌ河畔の古本屋」「セーヌ河畔の古本盗人」など、魅力的な文章はたくさんありました。

『亀脚散記』の装幀は故六隅許六。亀脚とは仙人掌のことだそうです。


 『乱世逸民問答』のほうには誠実さや謙虚さが感じられました。「青春と僕」で、美に携わる人は政治や文化の問題にどう対すればよいか、煩悶のすえに、最小限の犠牲を払ってできることは何かを考えることだと結論づけたり(p20)、若い日の読書を振り返って、妙な高等文芸礼讃癖が根強く残っていて単なる事大主義者になっていた(p143)と反省したりするところ。

 『乱世逸民問答』の辰野隆風の問答スタイルの文章は時代を感じさせられますが、「人間は、いろいろな形の器だよ。どんな大学者でもどんな美人でも、飯を食って、臭い大便小便を垂れるのだということを忘れんほうがいい(p98)」などという文章は、そんな書き方をしなければとても書けないような内容。

 「近頃はほとんど日本では忘れ去られた傾きのあるサルトル(p52)」という文章がありました。これが書かれたのは1949年、私が高校時代(1960年代後半)はまだサルトル全盛でしたから、一時人気は下火になっていたのでしょうか。

 鈴木信太郎辰野隆の本にも重複が多いことは何度も書いてきましたが、渡辺一夫も、この二冊の本だけでも「エドゥワール・シャンピオンの思い出」「セーヌ河畔の古本屋」「セーヌ河畔の古本盗人」の三篇が重複しておりました。


印象に残った部分。

ラブレーの『第四之書パンタグリュエル』及び『第五之書』中に現われ出る夥しい数の怪物の描写の挿絵としても、ブルーゲルやボーシュやシェンガウエルやカロやクラナッハの幻想画は、恰も註文して描かれた挿絵のようにも思われよう/p273

以上『亀脚散記』

人間がね、銘々獣に戻り易く機械になり易いということを、いつも反省していることが必要じゃないかと、僕は思っていますがね/p105

われわれの前にある未来というものも、われわれにとってダイナモみたいなもので、われわれが何か一番大切なものを知らないために、とても理解できない/p107

僅かばかりの冊数の、限られた種類の本を読んで得意になり、人生のこと世界のことを、全部これで割り切ろうとするような変な結果にもなりかねません/p124

その人に判ることしか判らない・・・ピントのぼけた影像しか写っていない乾板なりフィルム(われわれ)なりには、いくら優秀な現像液(書物)をかけても、ぼけた影像しか現像されません/p127

「よい子」になろうと努めた僕は、「よい大人」になろうと努めてもいる可能性があるのでしょうから。自分だけが「よい大人」になろうとしている気味はないか?と、さらに自粛する現在の僕は一体何でしょうか/p136

以上『乱世逸民問答』