:郡司利男『アダムのへそ―言語文化随想』


郡司利男『アダムのへそ―言語文化随想』(桐原書店 1984年)


 引き続いて郡司利男の本。前回の『ことば遊び12講』が月刊「言語」に連載したシリーズものであったのに対して、これはいろんな雑誌への寄稿を集めたものですが、『ことば遊び12講』がことば遊びの技巧の説明に終始していたのに比べて、背景の原理的な部分にまで筆が及んでいる論文もあり、充実した内容になっています。

 例えば、『ことば遊び12講』にもよく出てきた異分析について、次のとおり4つの型に分類し、さらに場の異分析という概念も加えています。
(Ⅰ)型:a nadder→an adder(まむし)への移行やelephantの(eleph-ant)の分節に見られる古典的異分析、
(Ⅱ)型: 「No cow has eight legs.(8本脚の牛はいない)」を(no cowには8本の脚がある)とする異解釈、
(Ⅲ)型:a grin without a cat(ネコともしないニヤリ)のような異配列、
(Ⅳ)型:You can’t be in two places at once unless you were a bird.(同時に二箇所にはおれませんよ。鳥じゃないんだから)のようなBullやI was in the room but he was out of the question.(ぼくは部屋の中だったが、あいつは問題外だった)のようなノンセンス、
(場の異分析)型:「Waiter, there’s a fly in my soup.」に対して、「Serves him right(いい気味だ). The devil was in the ice cream last night.」のように答えるおかしさ。


 もっとも印象に残った文章は、副詞の重要性を訴えたもので、副詞は文の構造からすると付随的で、三次語として扱われているが、表現というものを考えた場合には、中核を担う一次語であるとし、言語学者や文法研究家が言語分析にのみ熱中して、肝心の表現の美しさに感応する心を失っていると指摘した部分です。たしかに副詞や形容詞で情景が生き生きと立ち上がってきます。これから文章を読む時、注意したいと思いました。

 他にも、鋭い洞察に満ちた言葉がいくつかありましたので引用しておきます。

だれでも幼くして母国語を習得するのは、ことばが本質的に遊びであるから/p36

なぞ遊びの多くは逆算というか、面白い定義を逆にたどって見出だし語にたどりつかねばならぬといったところがあり、考えてみてもどうにもならぬところがある/p48

目の前にりんごがないときでも「りんご」と言えるところに、いわばことばの本質がある・・・現実よりもことばの方が操作しやすい/p57

表現は定着度が高いほど異分析による脱出の衝動が強くなるのかもしれない。ことわざのもじりが多いこと・・・がこのことを裏づけしている・・・「ことばの非レッテル用法」ということであろう/p74

そもそも表現―つまり、われわれをとりまく世界や、われわれの頭に去来することや感覚をことばで切り取ること自体が、一種の異分析であると言えなくもない/p86

ことばの宿命として、何かを言うということはつねに、何かを言わないことになる/p109

歴史の記述はすべて、後世の眼を通すということでは、アナクロニズムである。ということがなければ、たとえばコロンブスを、当時のスペイン社会の中で考え直す、などということは無意味な冗語になってしまう/p225

「もどき」は・・・「まがいもの」であり、「偽物」でないまでも「似せ物」である。しかし、いったい人間の文化から「似せ物」を取り去っていくと、何が残るであろうか/p257

 前回敢えて書きませんでしたが、この人の文章は自慢げで、人間的にはあまり好きになれない種族。英語の先生によくあるタイプと言うと言い過ぎでしょうか。また分かりきったことを説明するのが沽券にかかわると思っているのか、地口やなぞの種を明かさないまま、次の話題に移るせっかちさが、私のような理解の悪い読者に対して親切ではない気がします。