:塚本邦雄『ことば遊び悦覽記』


塚本邦雄『ことば遊び悦覽記』(河出書房新社 1980年)


 いよいよ大御所の登場。前回も少し書きましたが、この本を書くきっかけになったのは、河出書房の編集者から、和田信二郎の『巧智文學』を渡されたことだそうで、『巧智文學』については高く評価し、「例を廣く世界に求めて、その博覽を誇ってゐる・・・私は『カリグラム』以外に、多くを補足する力がなかつた」(p189)と正直に告白しています。たしかに、この本の引用例のかなりの部分が『巧智文學』に掲載されていたものですが、それに対する解説、註釈にはやはり塚本邦雄ならではのものがあり、新しい生命が吹き込まれています。

 塚本邦雄らしさの第一は、文章の独自さから来るもので、まず眼に入って来る画数の多い旧字体に、「はひふへほ」や「ゐゑ」などの旧仮名遣い、また漢字に添えられたルビ、それらが形作るごてごてした黒っぽい字面のなかに、新鮮な息吹を感じさせられる西洋由来のカタカナ語が鏤められて、和漢洋の混淆した眩惑的な世界が広がっているところです。文章のトーンにおいてはさらに独自性が際立っており、「他ならぬ」「今更縷述するまでもなく」「至極當然の」「一讀すれば明らかなやうに」「所詮」「いささかも…ない」というような妙な断定口調、「『遊び』拒否論者は一度も思ひ及んだことがないのだらうか」というような挑戦的態度、あるいは、「流麗鮮烈しかも奇想天外な離れ業」「泡だち、たぎちつつ奔る歌の流れ」「道家紛ひの勤勞讚歌、俗臭紛紛たる自然讚歌が、舌足らずな辭句を集めて捏ち上げられて」と形容句を畳みかけるように配する修辞など、読んでいて面白い。

 内容的にも言語遊戯に関していろいろな新しい視点があり、塚本邦雄のことだから、言語遊戯には寛大だろうと思っていたら、『新古今集』から物名など教義の言語遊戯の歌を排除したことは後鳥羽院の見識と評価したり、「地口」「早口言葉」「尻取り文句」等の次元の低い言語遊戯は割愛せざるを得なかったと書いているように、意外と厳しく、あくまでも詩歌としての美を追求していたことを窺わせます。

 冒頭の「遊楽の序」では、言語遊戯の伝統と和歌の関係を洞察しています。要約すると、
①古来、狭義の言語遊戯を主眼とした和歌は、別枠に扱われ他の歌とは区別されていたが、一般的な和歌にあっても、その万葉仮名の漢字の絢爛性を考えると、言語遊戯的な要素を追及していたことは間違いない。
②さらに六歌仙時代から新古今時代には、異次元憧憬が溢れ出し、まさしく幻想としての遊びの完璧な言語化と見られるような作品が多い。
③しかし古今東西、悲劇に対する信仰は抜きがたく、事実は虚構を駆逐し苦行は遊楽を蔑視する傾向にある。日本においても言語遊戯的な文学より簡素淡白な文学が正統として、今日の私小説にまで尾を引いている。
④言語遊戯要素を多分に含む詩歌の理想像は、その技巧が「遊戯」のあらわな志向をうかがわせぬほどに洗練される必要がある。


 その他、塚本邦雄の見方がよく現れていた文章を、原文をなるべく変えずに引用しておきます。

上代、中世の縁語・懸詞の、ともすれば煩瑣陳腐になり、修辭のための修辭、愉楽不感症的遊戲となり易いのに比べ、萬葉枕詞はなほ迫眞性を喪はず、しかも鮮烈な言語驅使に歌人の陶醉の吐息さへ響いて來るやうだ/p18

漢字の持つ魅力は、非象形文字さへ、慣用されることによつて、その意味を視覺化するところにあらう。「窈窕」「鬱蒼」「玲瓏」「靉靆」「燦爛」「朦朧」等の抽象語すら、その形容詞にふさはしい狀態を形として幻覺させるのだから、まして、「薔薇」「麒麟」「蜻蛉」「檸檬」「鳳凰」が、その色調、生態までありありと想像させるよすがとなるのも、いささかも不思議ではない・・・漢詩唐詩はその意味で、すべて廣義のカリグラムに他ならず・・・/p112

幾何學的構圖も示さず、カリグラムとも縁は遠いが、活字の排列の視覺的効果に、その表現技法の半ばを委ねた作品例として、北園克衞のものを想起する・・・選集、詞華集、其他に引用移籍され、組み方が變つた途端、その價値も半減するのがこの種の詩作品の宿命である/p128

一定の長さの詩を、殊更に行變へせず、句讀點をも省いて書き流し、そこに独特の懶(ものう)く遣瀬ない情緒を湛える例として、木下杢太郎の「抒情小吟」・・・現代詩人のほとんどが、いはゆる「自動記述」的發想の試作に、この方法を援用してゐる・・・夢の再現、無意識の世界の記述には、一応最も適した方法とも考へられる。それゆゑに、ある意味ではこれらも亦、カリグラムの中に數へても差支へない/p128

時間を遡行して生き變ることが不可能であるなら、むしろ作者が現代に生きてゐたら、いかなる表現方法を採るか、それを様様に想定して試みる方が、却つて古歌の眞に肉薄する可能性が多からう/p151

 印象に残った言語遊戯作品は、短い物だけを取りあげますと、

人魂のさ青(を)なる公(きみ)がただ獨(ひとり)逢へりし雨夜の墓(はひや)し念(おも)ほゆ(万葉集巻第十六「怕(おそろ)しき物の歌三首」より)/p15
→「怖いものは」の「ものはづけ」的要素濃厚な戯歌

はるごろうえしあいおゐの/ねまつゆくゑにほふなり/よわひをすへやかさぬらむ/きみもちとせぞめでたけれ(未足齋六林子)/p39
いろは歌

鳥啼く聲す夢覺ませ/見よ明け渡る東(ひんがし)を/空色榮えて沖つ邊(べ)に/帆船群れゐぬ靄の中(うち)(埼玉 坂本百次郎)/p41
→「万朝報社」懸賞に選ばれたいろは歌

乙女花摘む野邊見えて/われ待ちゐたる夕風よ/うぐひす来けん大空に/音色もやさし聲ありぬ(和歌山 桑岡孝金)/p43
週刊朝日の「新いろは歌」募集の当選作

 本書には塚本邦雄自らの手になる言語遊戯的作品も紹介されています。なかでは短歌に触発されて作った幾何学散文詩が面白く、一部安っぽいメロドラマ風なセリフや乙女チックな言葉遣いが気になったのもありましたが、とりわけ定家のもの、とくに「さざなみや鳰の浦風夢絶えて夜渡る月に秋の舟人」「袖に吹けさぞな旅寝の夢も見じ思ふ方より通ふ浦風」「行き歸る果てはわが身の年月を涙も秋も今日はとまらず」の三首につけたものは素晴らしい。引用するには膨大かつ幾何学形は復元不可能なので、字が判読できるか分かりませんが最後の一首をスキャンしたものを載せておきます。