菅谷規矩雄『詩とメタファ』

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菅谷規矩雄『詩とメタファ』(思潮社 1983年)

 

 「メタファ」という言葉につられて読んでみました。2部に分かれていて、第Ⅰ部は「現代詩手帖」に長らく連載していた時評をまとめたもの、第Ⅱ部は、詩の音数律やメタファについて書かれています。菅谷規矩雄は以前詩のリズムに関する本を読みました(2013年8月1日記事参照)。あまり覚えておりませんが、今回もその延長上の議論が少しあったように思います。

 

 第Ⅰ部の時評のもっぱらの関心事は、書かれた時が1982年ということもあって、戦後詩の終りがテーマになっています。戦後詩の世界に、それまでとまったく違ったタイプの詩が増えて来るのをまのあたりにして、それをどう考えるかが中心となっています。どの立場から眺めるのかでずいぶん違ってくると思いますが、戦後詩のまっただ中を生きてきた著者には、いささか困惑気味な様子がうかがえます。

 

 いくつかの言葉を拾っていくと、その感じが分ると思います。

①「世代の興奮は去った」という感覚のなかから、わかい詩人は登場してきた(p133)。

佐々木幹郎あたりを境にして、それ以後の若い詩人たちの作品に対して、しだいに波長が合いにくくなった(p143)。

③読者には分かりやすいが、批評には分かりにくい詩―詩はそのように現象している(p145)。

④ことばを失って声だけが騒々しいような詩・・・われらの詩もまた・・・騒音の都市の再生装置と化した(p54)。

⑤詩は思想であることをやめてしまった―それだけが詩の可能性である。身がるになった詩のことばは、風俗の衣裳をつぎつぎに着かえながら、やがていつしか〈都市〉そのものをくぐりぬけてしまい、おのれの自然たる生理そのものに帰着することになる(p30)。

⑥どうやら自由詩の時代も終りに近づいているんじゃないか。詩作者はしきりに形式をほしがっている(p100)。

⑦〈方法としてのメタファ〉が、口語自由詩たる戦後詩の構成上の原理すなわち〈構造〉である・・・いまや、メタファは、作品構成の原理であることをやめてしまった(p115)。

⑧かつてこれほどまでに詩の〈自由〉が現象したことはないだろう・・・詩はいま、メタファの分解の過程にある―それは〈場面の詩〉に端的にしめされている(p136)。→場面の詩というのは、「語法としての喩を意図的に排除することで、〈作品構成〉じたいをひとつの喩とすること」(p198)と説明していて、その例として、鈴木志郎康「家族情景詩」や天沢退二郎「日常綺譚集」を挙げていた。

 

 著者の文体そのものがまさに戦後しばらくの時代を特徴づけています。自分だけ分かっていて読者をないがしろにしたような文章。私も学生の頃はこういう文体をかっこいいと思っていましたが、いま読んでみると、ややこっけい感を感じてしまいます。それはひとことで言えば、男性的すぎるというか、分かりやすく言うと、かっこつけていて喧嘩腰なのです。例えば抽象的な難しいことを延々と書き連ねた後に、「オトコとオンナの永遠の訣れが、これからはじまるのだ」(p31)とか、「『しょせんこの世は男と女』とうそぶいてみるしかない」(p53)と書いたりするのは、どういうセンスでしょうか。

 

 第Ⅱ部ではいくつか面白い指摘があり、またそれについて考えてみました。

①「当時の記録者たちにとっては、漢字は、たとえば現代におけるカセット・テープレコーダーよりもはるかに強力で有効な武器つまり〈道具〉であったろう」(p165)とあり、文字の誕生の意味を新しい感覚で知ることができた。

②「文字としての四音句が音声としての四音句と一致するとはかぎらない」(p161)とあるように、録音もない文字だけの時代に、実際にどんな詩の読み方(歌い方)をしていたのか定かでない以上、たとえば記紀を題材にして音数律などあれこれ推理をめぐらせることに意味があるのか。それよりも今日巷で流通している音声を分析することの方が地に足がついていないか。

③先日読んだ『山家鳥虫歌』で替え歌がひじょうに多いことに驚いたが、この本で、折口信夫の「替え歌・・・どうして、神授とも思われた伝承の歌詞を、新しく変更してさし支えを感じなかったのか・・・ふしを思い、此こそ、神意の寓る所と信じた」(p167)という文章を読んで、歌は言葉よりもふしを重要視していたことを納得した。

④「歌謡の〈リズム〉は本源的に指示性に対応し、そして〈旋律〉は本源的に自己表出性に対応する―という仮定が可能である」(p172)とあったが、歌唱におけるリズム、音節、言葉、旋律、響きの構造を考えるのは重要だと思われる。ここでは、発声がリズムを呼び、リズムが言葉を引き出し、歌が誕生するが、旋律と言葉は不可分であり、この一体性を支えているのがリズムという解釈がなされている。

⑤「フランスのシュルレアリスムは、まさに〈喩〉の濫発による〈喩〉じたいの解体・下落をよびよせるものであった」(p116)とあるのを読んで、新体詩が七五調の陥穽で衰退していったように、メタファも濫用されると効力を失うということだろう。要はいかに新鮮なリズムや喩を発見するかだ。

⑥「メタファの概念を、あくまで修辞の一形式―という狭義のものにとどめておくべきだとかんがえる」(p196)と書いているのは、「場面の詩」の概念と矛盾するような気がする。メタファは言語の本質に根差していて、文芸そのものもある種のメタファだと思う。

 

 この本で取り上げられている詩を読んで、あらためて田村隆一谷川雁鮎川信夫の詩の抒情的な調べの魅力、入沢康夫の「死者たちの群がる風景」の緻密な構成に感心しました。また架空の王国の観察記録という体裁の高橋睦郎『王国の構造』や、高橋徹という人の「桃花源」をテーマとした『陶淵明ノート』も読んでみたいと思いました。