ウィリアム・エンプソン岩崎宗治訳『曖昧の七つの型』(研究社 1980年)
この本を読んだのは、この本のタイトルに惹かれたからで、象徴主義との関連のことが書かれてるのではという興味からです。ずいぶん昔に博学の友人からこの本の存在を教えてもらって以来、長年読まねばと思いつつ敬遠してきた本。購入は比較的最近です。評判どおり着眼点はたしかに独創的で、詩というものはもともと曖昧な部分が多く、読者はこれまで自分の読解力が足りないとか、その詩が理解できないと思いこんだりするだけでしたが、著者はその詩の曖昧がどこに由来し、しかもなぜ惹かれるのかを徹底的に解明しようとしています。シェイクスピア、ダン、ハーバート、ドライデン、クラショー、ポープ、キーツ、シェリー、エリオット、それにハイヤーム(フィッツジェラルド)の詩まで俎上に乗せられ分析されています。
曖昧という場合にもいろいろあって、文の構造が原因で文法的に複数の解釈が成り立つことに由来する曖昧もあれば、単語が多義的であることからくる曖昧もあり、詩人が本当はどの気持ちを言おうとしたのか分かりにくいという場合もあれば、実は、詩人の方でも言おうとすることがはっきり決まっていない場合もあったり、わざと曖昧な言い方をする場合もあり、一筋縄ではいかないということが分かります。
読んでみると、思ったとおり読みにくい本でした。その理由はいろいろ考えられますが、ひとつは、私が英詩の世界にあまりなじみがなく、また英語の微妙なニュアンスが分からず、取り上げられている詩の大部分に魅力が感じられなかったこと。もうひとつは、扱っているテーマそのものが「曖昧」という茫漠としたものなので、いきおい話が複雑になり、微妙なところを詮索しているうちに多弁になって、理解が難しくなっていること。もうひとつは、470ページを越える分量の多さ。読んでいるうちに放り投げたくなるぐらいで、できればこの半分ぐらいにしてほしい。それに、この本は一種の「曖昧例文集」だと思いますが、各例文の仕分けが不分明。極めつけは七つの型の分類自体が分かりにくいということにあります。
本人も自分で七つの型に分けておきながら、途中で、ある引用例を、4章(つまり第4の型)でも5章でも、また6章に入れてもよいと言ったり、あげくに巻末で「わたしの提出する七つの型も・・・もっと真剣な本質的分析を試みるとすれば、それらの型はたぶん些細な分類にすぎないと思えてくるであろうし、類型として互いにほとんど区別のつかないものになってしまうであろう」(p466)とまで言っています。それなら初めから分けるなと言いたい。
この本を読んでいて、イギリス人の資質ということを考えてしまいました。本文中にも、英語をフランス語のような規則的な言語にしようとドライデンの時代(17世紀)に努力したと書かれていましたが(p200)、もともとイギリス人には物事を分かりにくく言おうとする気風があるように思います。これまで読んだイギリスのスパイ小説やミステリーでも、ストレートにものを言わず持って回った言い回しの分かりにくい文章にたびたび出会いました。エンプソンにも単純に言うのが恥ずかしいという志向があるのではないでしょうか。曖昧を語るには、もっと明晰であってほしい。
ということで、ほとんど歯が立たなかったこの本について何か感想なり意見を言うのはおこがましい限りですが、いくつか、触発されて思いついたことを書いてみます。
①全体的にエンプソンは詩を深読みしすぎているのではという印象がありました。詩を深く読むことはいいことですが、なぜ深く読むのか。私は自分の好きな詩であればこれくらいはやってみたいと能力の問題はさしおいて思ったりしますが、その点、この本には、なぜその詩を素材として選んだのかという視点と説明が抜け落ちているようにみえます。単に曖昧を説明するのに好都合な詩というだけではあまりにもお粗末。取り上げられている詩もある程度オーソドックスな評価が確立されている文人のものに限られており、学界の中で生きている人の制約があるのではないかと勘ぐってしまいます。
②批評には鑑賞型と分析型があると書いていて、鑑賞型は読者の詩の理解が深まるように工夫し、分析型は読者がすでにある効果を得ていると仮定したうえで、その効果の依って来たるところを明らかにすると、その違いを説明していました。エンプソンはどうみても分析型の批評家ですが、私は批評は鑑賞型であるべきだと思っています。このことは、エンプソンが巻末で漏らしている「詩が正しく解釈されているのかどうか、詩が快感を与えるときその快感を自分に許すべきかどうか、この両方についての不安が、たえず心の奥に残っている」(p469)という言葉とも関連していて、それに答えるとすると、詩を正しく解釈する必要はなく、自らの教養に応じた誤読誤解を前提に、あるがままの快感を素直に楽しむものだと考えています。
③詩人はなぜ曖昧を求めるのか。エンプソン自身も「詩とは本質的に暗示的な行為である」(p110)と書いているように、曖昧は詩にはもともと不可欠なものかもしれません。それを意識的に技法の核心に取り入れたのが象徴主義の美学でしょう。物事を明示せず、多義的に解釈できる文章を作り、茫漠としたイメージを作品の背後に生み出すことで、作品全体に深みを与え豊かに彩ることを狙っています。読者の側からすれば、中ぶらりんにされることで、自らも詩的想像力を働かせざるをえなくなり、より詩を密接に感じられ味わいを深くすることになります。
④曖昧を作る技法として、いちばん大きなものは比喩だと思います。比喩は文学そのものと言ってもいいくらいで、直接明示せず、ほのめかす、あるいは別の言葉で置き換えるというところに曖昧を生じさせます。もうひとつは表現のなかに対立や二律背反を含むような観念を用いること。それによって直接的には詩人の心の中の痛ましいほどの混濁、分裂を示し内面の振幅の大きさを表現します。エンプソンによれば、間接的にはいろんな解釈が「意味の倍音」として詩を響かせると言います。もうひとつは暗示。これは言わないことによって大事なことを言う技法です。何によって暗示するのかということを考えると比喩の働きに近いものがあります。さらにもっと進めば何も言わない沈黙にまで行き着くのでしょうか。
⑤エンプソンは長大な紙面を費やして分析を行っていますが、そのほとんどが曖昧を数行の詩句や文脈に限定していて、範囲を狭くしているように感じられます。一つの詩作品全体で曖昧を生み出すことはよくあるので、その例をもう少し取り上げて欲しかった。あるいはまた複数の詩の関係あるいは詩集全体で曖昧を醸し出すということもありえるかもしれません。
他にも、リアリズムと曖昧の関係や、美術音楽など他ジャンルでの曖昧表現など、考えてみたいことはありますが、私の手に余りますので、この辺にしておきます。最後にこの本で出合ったいくつかの美しい詩句を引用します。
…neglected thou/ All in a cold quicksilver sweat wilt lye/ A veryer ghost than I.うち棄てられたおまえは/ 体中、水銀のような冷汗に覆われて横たわるのだ/ ぼくよりもっと亡霊のようになって(ダン「聖テレサ讃歌」)/p272
With mighty whirl the multitudinous orb/ Grinds the bright brook into an azure mist/ Of elemental subtlety, like light.多くの者の住むその球体は大きく旋回し/ そのきららな流れを砕き、ひかりのような/ 始源的な霊妙さの碧青の靄にしている(シェリー『プロメーテウスの解縛』)/p298
Night falls like fire;夜が火のように落ちる(スウィンバーン「ヴィナス讃歌」)/p304
Time with a gift of tears/ Grief with a glass that ran.時は涙の贈物をもち/ 悲しみは流れる水時計をもって。(スウィンバーン『キャリドンのアタランタ』)/p306
Let the rich wine within the goblet boil/ Cold as a bubbling wellその美酒を郄杯の中で泡立たせよ/ 沸き立つ泉のように冷たく(キーツ『ハイペリオン』)/p396