:新倉俊一『ノンセンスの磁場』


新倉俊一『ノンセンスの磁場』(れんが書房新社 1980年)


 この本は、20年近く前に一度読んだことがあります。このところ、ことば遊びの本を読んでいるうちに、ノンセンス詩についてまた興味が湧いたため再読してみました。もちろん内容はほとんど覚えておりませんでしたが、以前の読書ノートを見てみると、同じところに感心し、同じ感想を持っていたようです。感性が一貫しているというか、成長がないというか。

 前半に、萩原朔太郎ら12人の詩人を取りあげてその作風を解説し、後半には、「わがライト・バース詩選」として48人の詩人の作品を載せています。この本が画期的なのは、ノンセンスや諧謔という切り口から日本の近代詩を見直したという点で、おそらく初めてのことではなかったでしょうか。またノンセンス詩風として取り上げられている詩人の半分以上が、私の好きな人でした。萩原朔太郎安西冬衛田村隆一吉岡実入沢康夫、粕谷栄市、粒来哲蔵。

 前半の充実度に比べ、後半の詩選は、吉岡実岸田衿子山村暮鳥など少数の例外はありましたが、どうしてもなじめないものが多く、なぜそうした詩が評価されるのか、著者のセンスを疑ってしまいました。とくに、行分けしただけでリズム感の欠如した詩が多く、これなら初めから散文で書けばいいと思うものが大半を占めています。

 著者は、ナンセンス詩の諧謔性をいわゆるロマン派の抒情詩に対するものと位置づけ、萩原朔太郎に対し、「萩原朔太郎には『最後のロマン派』としての限界がある」(p46)などと書き、いたる所で、抒情的詠嘆や民謡調に侮蔑の目を向けていますが、この態度は好きではありません。よほど大学で質の悪いロマン派の詩を勉強させられたのでしょうか。詩に露骨に表れている感情と、詩を作る際の詩人の内面とを混同しているところがあります。


 ノンセンス詩のあり方をもう少し整然と理論立てて欲しかったと思いますが、あちこちに散在しているそれらしい指摘を材料にして、私なりに解釈したノンセンス詩の特徴を並べてみます。洩れているものがあるとすれば、それは私があまり関心を持たなかったからだと思います。
①ノンセンス詩は人間的感情を抑えた非人称的な叙述をもっぱらとする。それは自らを客観化することで、自らの狂気を羞恥なく語り、現代のグロテスクな状況をイロニーで処理する方法である。ときに個物への偏執として現れたり、架空の町を語ったりする。
②ときに残酷な相貌を持つが、読者は人生という悲惨な笑劇に対し涙をこらえて笑わなければならない。
③ノンセンス詩のなかでは一種の合理性が支配している。すべてがチェス・ゲームのように機智で動かされ、数学的な秩序がある。突飛な叙述にも比喩の論理的妥当性がある。シュールレアリスムの自動記述に見られるような支離滅裂な錯乱はない。
④一方、日常の秩序を逆転させ、ありえないことが起こるという、驚かしの技術に長けている。しかし、そのなかにも奇妙な「虚構のリアリティ」が存在している。
⑤ときには、ポーが「すべて美しい物にはいくらか奇異なるところがある」と言ったように、退廃的な憂愁と怪奇の雰囲気を持つものもある。
⑥また、登場人物や事件の叙述が曖昧な場合がある。
⑦もちろんパロディやことば遊びはノンセンス詩には欠かせないもの。
⑧詩の形としては、散文詩である場合が多い。行分け詩の場合は、数え歌のように同じパターンを幾連も続けたり、「一人は○○/一人は△△」というような併列法を使用したり、また軽みのあるリズムを持っている。


 萩原朔太郎の詩をはじめてグロテスク・アートと定義づけた西脇順三郎、その西脇の詩作品に対して、朔太郎は「詩が欲求されることの必然性を知らない」と批判し、その朔太郎の抒情性に対して田村隆一が反発していたこと、安西冬衛には「アッシャー家の没落」の影響がみられること、安西冬衛の散文形式がその後の入沢康夫散文詩につながり、入沢康夫は岩成達也と一緒の同人誌に所属し散文詩形式を競っていたこと、吉岡実の「僧侶」にはマザーグースの技法が取り入れられていることなど、詩人同士の関係も知ることができました。