寺山修司『棺桶島を記述する試み』と金井美恵子『春の画の館』

  
寺山修司『棺桶島を記述する試み』(サンリオ出版 1973年)
金井美恵子『春の画の館』(講談社文庫 1979年)


 異界と奇想をテーマとした散文詩ということでまとめてみました。両作はテイストはまったく異なります。好悪で言えば、『棺桶島』が圧倒的に面白く、『春の画の館』は私の好みではありません。


 寺山修司の詩は、私が詩を読み始めたころに、大勢の戦後詩人を含めたアンソロジーで一度接して、諧謔に奇妙な味を感じたものの、他の詩人のストレートな抒情性や重々しいトーンのほうに気を奪われて、あまり評価できないまま、その後、敬遠気味にしておりました。演劇分野でも、唐十郎状況劇場はよく見に行きましたが、寺山修司天井桟敷へは行ったことがありませんでした。

 今回、『棺桶島を記述する試み』を読んで、「わたしに似た人」や「生れた年」など、昔読んだ詩に近いものを感じるとともに、ナンセンスと奇想に溢れ、諧謔ぶりが思う存分発揮されているのに感心しました。論理的であろうとするところに、詭弁的なおかしみが湧いてくる感じです。歳とともに私の感性が変わったのかも知れません。

 ロビンソン・クルーソーの物語を下敷きに、都会のなかで真似をしようとした男が繰り広げる冒険譚ですが、物語の展開が好き放題やりたい放題で、人間が失踪したばかりの街へ行ってみたり、「ありとあらゆる語」を話す男と「なんにでもなる語」を話す男の会話があったり、すべてを消すという怪物ゴムゴムが来るというので逃げ出したり、ピアニストはただ一人しか要らないというような唯一無二の絶対が支配する島で相対同盟の一員として政府と闘ったり、という具合。

 そんなストーリーの合間合間に、「ぼくは人に、夢から醒めろと忠告したものだが、きみにはむしろ、現実から醒めろと言ってやりたいよ」(p15)とか、「誰も、他人の目で涙を流すことは出来ない」(p17)、「さて、どのへんから夢で、どのへんから現実なのかは、彼にもたしかではなかった」(p28)、「旦那。あんたの場合には『ありとあらゆる女』と『なんにでもなる女』とどっちを抱きたいですかね?」(p38)とか、「お客さんはよく、二階の部屋空いてる?・・・とかお訊ねになりますが、各階に二部屋以上あると返答に困ってしまうのです」(p61)、「『何だ、お前は?』すると声が返ってきた。『おれは、お前だぞ』」(p84)といったような奇怪なフレーズが添えられます。

 各章のはじめに、中世版画風の挿絵がついているのが妙味を添えています。装丁者は榎本了壱


 『春の画の館』は、初出は1973年刊。入沢康夫の『ランゲルスハンス氏の島』(1962年)、多田智満子『鏡の町あるいは眼の森』(1968年)、入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年)など、架空の場を描いた詩の影響を受けていると思われます。全体は散文で物語風で、ところどころに口調のいい唄が挟まれますが、それが成功しているとは言えません。印象としては、『ソドムの百二十日』などサドの作品を思わせ、金子國義の絵を見ているような感じ。全体としてあまり好感は持てませんでした。

 理念的な館が舞台。庭が物置と化して部屋から部屋へと渡り歩くしか移動できない館で、主は姿を見せず、館の庭にある12の小屋に「女中」と呼ばれる女性が住み、館には少年少女が住んでいるという設定。館は実は巨大な売春宿で、やたらと人が簡単に死んだり、人を傷つけたり、血の匂いがしています。性的な記述は多いですが、ねちねちとした感じはなく、抽象的で断言的でさっぱりしているところがサドに似ています。後半から、館の主が何者かをめぐる考察が繰り広げられますが、結局、主が不可視であり、それ故不死であることが、この館が不合理なままを永続できるという言葉で終わります。

 この作品も、挿画が一味添えています。これは、お姉さんの金井久美子作品。