:現代詩講座第二巻『詩の技法』


村野四郎ほか『現代詩講座第二巻 詩の技法』(創元社 1950年)

                                   
 現代詩講座シリーズ第二弾。前回『詩とは何か』では、歴史的な概観や他ジャンルとの関係などから詩とは何かを探っていましたが、今回は、詩の技法について、すなわち定型論、音韻論、詩の形態、イメージ、詩語についてや、詩人が自らの詩作を語った文章が収められています。詩作の秘密を語っている後半のエッセイが面白い。

 著者のラインアップは、村野四郎、丸山薫、神保光太郎、野田宇太郎、吉田一穂、日夏耿之介鈴木信太郎安西冬衛、釋迢空、三好達治草野心平、伊藤信吉、北園克衛神西清中村真一郎高村光太郎金子光晴中野重治西脇順三郎ら、この巻もそうそうたる顔ぶれ。

 鈴木信太郎の論文は、フランス詩の韻律について書いたもので、大著『フランス詩法』のもとになるものですが、二三年前に読んでいるにもかかわらず、すっかり忘れていてショックを受けました。

 この本の中でとりわけ面白かった文章は、詩の要素としてイメージの重要性を説いた「現代詩の構成」(村野四郎) 、短詩の造型性を称揚した「現代詩のレトリック」(丸山薫)、白秋、杢太郎の南蛮語から朔太郎、犀星、拓次への語彙の系譜をたどる「現代詩のボキャブラリイ」(野田宇太郎)、王次回、羅雨峰、尤西堂ら中国の幻視詩人の存在を教えてくれた「日本詩の詩型について」(日夏耿之介)、自らの短歌の受容史を率直に語った「現代詩に於ける『俳句』と『短歌』」(三好達治)、フランス詩にも造詣の深いところを示した「散文詩」(神西清)、四面楚歌でなお韻律探求の必要性を説く「定型詩」(中村真一郎)、愛唱歌の歌詞の韻律がいかに譜面の音楽性とちぐはぐかを指摘した「歌のための詩」(野上彰)。

「私の詩作について」では、金子光晴中野重治のが双方とも素直な語り口で面白かった。

 これまで抱いていた詩人像と異なる意外な一面が分かって驚いたのは、吉田一穂の評論が早熟な高校生が書いたような文章であったこと、反対に、北園克衛が思いのほか、優しく語りかけるような文章であったこと。それから高村光太郎の「何も書けない」という告白の無残さ。戦争責任の重圧が響いていたのでしょうか。

 この本で多く見受けられた意見は、やはり時代を反映して、詩における重要な要素が音楽からイメージへと移行しつつあると主張あるいは指摘したもの。村野四郎の巻頭論文を皮切りに、丸山薫野田宇太郎、吉田一穂、金子光晴ら。そして雅語を戒める言葉の数々は、北園克衛金子光晴釈迢空から。詩語の重要性を語っていたのは野田宇太郎釈迢空。日本語の特性を嘆いていたのは神西清と釋迢空。

 詩の音楽的要素について思ったことは、オペラ体験で、歌っている言葉の意味を知ることで感激が倍化するように、詩の場合も、音楽の要素が加わることで魅力が倍化するのではないでしょうか。そういう意味では韻律をまったく無視するのはどうかという気がします。

 暑さでこれ以上考えるのはしんどいので、印象に残った文章を引用しておきます。

もし詩が全く音楽であるとすれば、詩は本当の音楽にくらべて、なんと力のない単調な音楽だろう(W・ギャロット)/p11

西脇順三郎の詩をよむとき、彼の論理が空間にえがく奇妙にねじれた心象の型態をたのしむのである/p17

以上「現代詩の構成」(村野四郎)

散文詩運動・・・一行乃至二、三行の短い散文形の中に詩想を盛る・・・その極端な短さの故に、それまでの口語自由詩の自然発生的な発想法や、無節度なダラダラ書きの形式と平板な修辞法を、うむを言わさず絞り上げることに著しい功績があった/p30

以上「現代詩のレトリック」(丸山薫)

今日の詩が民衆にアッピイルすることがすくない原因は、かつての異国情調に代るべき人間的何らの「あこがれ」さえも持ち合わせていないことにもよる。・・・今日の詩のレトリックに最も適切なボキャブラリイが発見されて、あたかも秤の両端のように平衡を保つ時こそ、詩は本来の文学的使命を果し得るのであろう/p67

以上「現代詩のボキャブラリイ」(野田宇太郎)

永井荷風がボオドレエルに比してから日本文士間にもようやく知られるに至った疑雨集の詩人王次回もあれば、ブレエクのように物の怪を白昼に見る羅雨峰、霊怪を賦する尤西堂があり・・・又清初の詩論はシムボリズムの根本理論に殆うく接触している/p85

以上「日本詩の詩型について」(日夏耿之介)

われわれの生命をゆする程、われわれの感情に直截なものは、今使われている国語なのだから、詩語と日常語とが同じであると言うことは、ひと通りも二通りも考えてよいことだ。だが多く日常の第一国語は、詩語としての練熟を経ていない・・・第一国語の生活力を、詩語としての生活力に換算するのが、今日の詩人の為事でもあり、大きな期待でもある/p144

以上「詩語としての日本語」(釋迢空)

現代詩が呼びもどさねばならない第一のものは、つよい人間的感情であるとおもう。・・・生活の基底には、こうした思想と感情のからみあいがあり、詩の表現はこの内面的ないとなみから浮びあがってくる。・・・そこに人間性に根ざすあたらしい抒情の意味を提供することをおもうのである/p189

以上「抒情詩」(伊藤信吉)

アランはその『散文論』のなかで、・・・唯でさえ韻律にゆたかな音楽的なフランス語を、更にまた韻律化したり音楽化したりして歌い或は述べる過度をいわば贅沢を、鋭く戒めている/p212

以上「散文詩」(神西清

現代詩をして、詩たらしめるために、詩の定型は、探求されねばならず、・・・律と共に、韻の研究も、詩人たちの直感的体験を通じて進められるべきである。・・・それはあくまで実作を通じて進められるべきであって、予め詩形を観念の中に造り上げて、それに詩想をはめ込むべきではない・・・と同時に自己の作品の中に、不完全な脚韻が聞こえた場合は、躊躇することなく、それを意識的な場に引き出すべきであろう/p223

以上「定型詩」(中村真一郎)

日本語が詩語として貧しいなどという個人の偏った見解は、そんなことを考えている人(引用者註:口語を洗練させようとしている人)を閉め出すだけの結果で、この瞬間にも、どこかの地平線で、誰かの手で、口語は美しい表現をえて、匂い薫っているにちがいないのだ/p235

どんな詩も、はじめからはっきりした目的をもっていることは少ない。詩人がその詩のなかの意味や目的をさし加えても、そんなものは、その詩自身がもっている目的に比べたらつまらないものだ/p238

以上「私の詩作について」(金子光晴