:ことば遊びの本二冊

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池田弥三郎編『日本語講座第二巻 ことばの遊びと芸術』(大修館書店 1976年)
桑原茂夫『不思議の部屋・1 ことば遊び百科』(筑摩書房 1982年)


 この二冊は、ともにシリーズ中の一冊ですがかなり性格が異なっています。前者はいろんな角度から日本語を考える「日本語講座」というシリーズで、本巻では、遊びの視点をはじめ、それ以外にも、口誦や流行語など、大衆的な言葉遣いについて書かれたもの。後者は、個人の著になる「不思議の部屋」というだまし絵やからくりを扱うシリーズで、言葉の遊びだけについて書かれています。


 『ことばの遊びと芸術』は、挨拶やあだ名などを取りあげた「くらしの中のことば」(池田弥三郎)、呪詞としての諺について記した「となえごとの流れ」(中尾達郎)、語りを面白くする工夫を書いた「はなしの技術」(武田明)、昔話と文学の境界を語った「口誦と文芸」(井口樹生)、和歌・民謡・童唄でのパターン化した表現を考察した「類型の詞章」(仲井幸二郎)、和歌や俳句以外の五七調の表現についての「末流のうた」(西村亨)、古典的な言語遊戯を説明した「文芸史とことばの遊び」(鈴木棠三)、「新語と流行語」(槌田満文)が収められています。それぞれの分野でしっかりと分かりやすく説明されていましたが、とくに「となえごとの流れ」、「末流のうた」の二篇は主張がはっきりしていて、読みごたえがありました。


 いくつか印象に残った部分は、次のような指摘や事実です。
①「ことわざ」の「わざ」は、神のすること、または人間が神に扮して行うというのが原義で、「わざはひ」は、神のしたことが人間にとって悪い状態や結果となって現れるという意味。
②「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」という『古今集』の東歌が紹介されていた。→東北大地震を思わせる歌ではないか。
俳諧歳時記の伝統には、民衆の持っている知識の集大成というだいじな要素があり、歳時記の一部には「民衆の教養」という見地から見て諺に入れるべきものもある。
④日本の諺は作者が分からず、また作者が誰であるか問題にならず、その場で言い捨てにされるが、外国の諺は、書物からの引用のものが多く、作者はもとより出典までもやかましく考証される。
以上、「となえごとの流れ」

⑤「大道めぐり」の遊戯を十人の子供らが遊んでいるうちに、いつのまにか十一人にふえ、ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がない。その増えた一人がざしき童子であるという。
以上、「口誦と文芸」

⑥「末流のうた」の基盤の上に、その頂点としての文学としての「うた」が存立する。
⑦フランスあたりでは改まったもの言い、儀式的な言語が韻文に近付こうとする傾向があるが、日本でちょうどそれに相当するのが和歌や俳句などの「うた」の形式である。作品の冒頭とか抒情的な部分など、気分が改まって緊張する部分には七五調が現れる。
⑧人に注意をうながすことばは二句形式で強く命令的に迫るのがよく、三句形式だとどうしても抒情的で力が弱くなってしまう。
⑨原作が、故意ではないが、民衆の常識や感覚のパターンに引き寄せられて改作される傾向がある。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」(原作)→「世の中は三日見ぬ間の桜かな」(流布)、「梅一輪一輪ほどの暖かさ」(原作)→「梅一輪一輪づつの暖かさ」(流布)というように。
以上、「末流のうた」


 『ことば遊び百科』は、15年ほど前に一度読んだ本で、今回読み直しました。入門書的で極めてわかり易く、初めて読むにはちょうどいいですが、他の本を読んだ後では、ありふれた例が多く歯ごたえに欠けるところがありました。新味としては、ことば遊びを暗号と結び付け、数多く例証しているところでしょうか。あとがきで、ことば遊びが盛んになる理由を考えているところは出色で、それは人が、日頃支配されているとしか感じられないことばに対して、逆に自由に扱えるという喜びを感じるからだと言い、センスを磨く修業の場となり新しい発見につながると、ことば遊びの隠れた力を称揚しています。

「昨日生まれた婆さんが/八十五六の孫連れて/前へ前へとバックして/海から陸へと飛び込んだ」という矛盾語法はナンセンス詩として面白い。また、クロスワード・パズルが1913年アメリカで誕生し一世を風靡して、当時流行していたマージャンが打撃を受けた、というのは初耳。