:宇佐見英治の本三冊

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宇佐見英治『方円漫筆』(みすず書房 1992年)
宇佐見英治『縄文の幻想』(平凡社ライブラリー 1998年)
宇佐見英治『明るさの神秘』(みすず書房 1997年)

 『方円漫筆』は二回目、『明るさの神秘』にも別の本で読んだのが幾分か混じっていましたが、いずれも随分昔に読んだものなのでほとんど覚えておらず、新鮮な気持ちで読めました。

 執筆順は、『方円漫筆』が明治大学で芸術の講義をしていたころのノートをもとにしたと言いますから1955年頃、『縄文の幻想』は1974年頃、『明るさの神秘』は1970年頃から1990年頃までの文章を集めたものです。『方円漫筆』と『縄文の幻想』は形についての思考というところで共通する部分があります。

 宇佐見英治は、二十年ほど前に『夢の口』を読んでからすっかりファンになってしまいました。大学で哲学(倫理学科)を学んだ人だけあって、フランスモラリストの伝統を受け継いでいるような箴言に溢れた文章の書き手で、哲学的であるとともに詩的な香気を感じます。

 今回フランスモラリストに興味が湧いたついでに、テイストが少し似ている宇佐見英治の未読のものがあったので、しばらく読み続けてみようと手に取りました。


 『方円漫筆』は、円形と方形をめぐる自由な思考を断章の形で綴った文章。当時としては形やイメージについて深く考えるというのはずいぶん新しいことだったにちがいありません。断章なので少し荒削りのところがあって、この中のいくつかの部分を発展させていけば、まだまだ何かが隠れているような気がします。

 体系的な思考ではなく断章風というところがフランスモラリストの影響を感じさせます。読んでいる人に新たな思考を促すような文章で、私も稚拙ながら少し考えてみました。
・実際に自然に多い形は幹や蛇など円筒形のような気がする。横から見ると矩形だが断面は円だ。
・雨粒が表面張力で丸くなるように、球や円は内部に凝縮する力を感じさせるし、渦は内側へ巻き込みながら円形を形作る。それに対して方形は鉱物(水晶)の面など静的。
・刺や毛というのは方形か円形を考えた場合どちらだろうか。例えばウニの球についた刺。


 『縄文の幻想』はある写真家が撮った縄文土偶の写真がまずあり、それをもとに文章を依頼された著者が、写真の魅力に抗し難く引き受けたところからできた本です。考古学についてほとんど素人の著者がいろんな博物館や発掘現場にも出向いて説明を受け専門書を読むというように、ゼロから考古学の勉強をしてこの文章がなったと言います。この出会いは僥倖としか言いようがありません。縄文土偶にじっくりと向き合い、物の形態や古代人の生活に対する考察が独自に展開されていて、さすがに宇佐見英治ならではと思わせられます。普通の考古学者が専門知識をもって解説した本よりも、数倍面白いものになっていると思います。

 とくに後半に展開されている、有機体と時間との関係の考察、縄文土偶と現代芸術作品との比較、人間と動物との関係の考察(これが『迷路の奥』所収「聖機械」では人間と機械との考察に置きかえられる)、服飾論、文様論は独自の光を放っています。宇佐見英治は、はじめは美術批評からスタートしたようですから、哲学でもどちらかというと美学の系統で、抽象的なだけの理論よりは、現物を前にした感性というものに重点を置いた人なんでしょう。


 『明るさの神秘』は、青森で林檎園をしている宇佐見英治ファンが手掛けた出版物。みすず書房が復刻出版したもので読みました。林檎園版も所持していますが汚れるといけないので。それにしても一般の人でもこれだけのことができるというのは素晴らしいことですし、驚きです。

 宮澤賢治についての文章を中心に、ヘッセ、片山敏彦、中江兆民、阿藤伯海らについて触れた文章が収められています。「世界とその神秘の深さは、雲の黒ずんでいるところにはない。深さは澄んだ明るさの中にあるのだ(p9)」というヘッセの言葉がキーワードになっています。

 賢治の天上的な感受性に触れながら、雲を鉱物のメタファーで語る美しさを語ったり、何かを見る場合の科学者の眼と芸術家の眼の違いから見るということの本質について議論したり、さらには文学者、学者、詩人たちの敬慕、信愛、友愛に満ちた交流を紹介しています。

 あらためて感じましたが、宇佐見英治の文章を読んでいる間は、静かな音楽を聴いているようなゆったりとした情緒に包まれます。文章の内容から受ける刺激も愉しみの一つですが、本を読んでいる間豊かな気分でいられるということが大きな魅力だと気づきました。


 恒例により印象深い文章を下記に。

砂漠をゆく場合にも他に眼を遮るものがなければ、行けども行けども水平線は遠のいてゆき、身を廻せば自分がつねに円の中心にいることを感じるであろう/p19

月の光は熱をもたない純粋の光なのでわれわれの疲れた心を慰める/p40

地下道や高速自動車道路を進む人は、はなから方位の感覚を棄て、位置の認知はもっぱら方向標識と継起の順序、矢印によって行なわれる。もっともそのさい自分が世界のどこにいるかということは問題ではなく、一定の目標に向って走っているかどうかということだけが主要な関心事となる。/p75

文字というものが単に人間と人間のあいだのコミュニケーションのために生まれたのではなく、神意を貞(と)うために、魔霊に打ち克つ呪力を体するために、すなわち超越的な、神的なものとの交信のために作り出された象徴図形であったということがわかる/p126

以上『方円漫筆』

われわれは自分が芸術作品を見ていると思っているが、もしほんとうに魅惑されたなら、われわれの方こそ作品から見つめられていることを不意に感じるものだ/p118

闇は器のまわりでじっと身をかがめている。・・・壺から出た闇はいっとき壺のまわりをさまよい、壺のなかに帰る/p128

真実はわれわれ自身のなかにこそ億年の時間が生きているのだ・・・石は過ぎてしまった時のしるし、等質で、等密な、だが不可逆な時間の保証者である。・・・それにひきかえあらゆる有機体、植物、動物、人間が生きるのはつねに現在、決して過ぎ去りはせず、つねに来ている今・・・「永遠の現在」である/p166

想像的なものは想像力によってしか理解されず、また理解するとはそれをふたたび想像的に体験することに他ならない/p171

人間は素面のままでは他の動物に立ち向かえないと感じたであろうということである。それが或る意味では今日まで衣服の着用の主要動機の一つをなしているのであるまいか/p223

文様は何よりも軀体に魔力を授与するものという装飾の発生の根本要請に由来しているように思われる/p241

茸がげらげら笑う広場で百足が肩列の脚を上げて舞い、蛇王は鎌首をのばして舌をふるわす/p259

以上『縄文の幻想』

花が語りかけてくるためには、まずその人が美しい人であらねばならず・・・/p7

真のリアリティは現実的なものと非現実的なもの、現実的なものと想像的なものとの複合/p14

貝殻の内層にはどうしても海の暁天の空と光を映していると思われるものがある/p50

ひかりはかたちに包まれねば保たれず、秘匿されねば顕れない/p65

科学の認識によって再構成或いは窮めうるものだけが世界であるという措定は、知性の倨傲を示しているように思われます/p79

あまりに抽象的に考えすぎるということは、世界に対する罪である(ヘッセ)/p81

われわれはふつうものを見ずにものの名を読み、色を見ずに色の符号を見分け、形ではなく形の輪郭と意味を見ている。われわれは存在の影によって存在を認知したと思っているが、われわれは決して存在の現前と不在の空虚を見究めない。われわれが桜の木だと思うのは、じっさいには一本の木質の円筒、紫をふくんだ艶めいた暗褐色の樹皮にかこまれた無数の髄の凝集、およそわれわれにはかかわりなく、それ自体で天を突き刺している或る無気味な量塊である/p98

第二次大戦後のわがジャーナリズムの状況は大衆文化の粗雑な反映であり、その最大の特徴は精神的貴族性の喪失、ある知的な気品の欠如、詩的雰囲気の低下、そして何よりも形而上学的味わいの皆無という点にあります(中村真一郎)/p254

以上『明るさの神秘』

 また引用が多くなり過ぎました。つい。