:渡辺一夫の本、また二冊

///
渡邊一夫『ヴィリエ・ド・リラダン覺書』(弘文堂書房 1940年)
ちくま日本文学全集 渡辺一夫』(筑摩書房 1993年)


 昨年末に引き続き、渡辺一夫を二冊。と言ってもまったく別人が書いたとしか思えないような二冊です。『リラダン覺書』のほうは戦前著者が三十代のころ書いたもの。『ちくま日本文学全集』は渡辺一夫の代表的な作品を集めていますが、「フランス・ルネッサンスの人々」からの数篇を中心に、戦争の傷痕をどこかに思い出させるようなものがほとんどで、まったくリラダン臭はありません。その証拠に、巻末の「年譜」でもリラダン関係の出版物の記録がまったく抜け落ちています。編集者が、渡辺一夫の仕事の中でリラダンは重要ではないと考えたわけでしょう。

 たしかに素人の勘繰りでは、渡辺一夫には書生風の理屈っぽさがあり、リラダンの中でもそうした小理屈や皮肉に共鳴しているようで、リラダンの作品の美にはまともに向き合っていないような気がします。本人も、「後記」のなかで、「『作品』自身の持っている麗しさを看過してはいまいかと懼れるのである(p184)」と省みていますが。

 渡辺一夫リラダンは、恩師辰野隆のかなりの影響のもとに着手されたもののようです。「『ボノメ博士』との一夕話」では辰野隆風の問答形式が採用されているあたりおかしくなってしまいます。全般的に若書きがありありとした気負った文章で、どこか明治時代の美文調を思わせるところがあります。つまり具体的な分析や解釈から筋道を立てて説明するというよりは、思い込みのような断定的で慨嘆的な調子が続くわけです。後年の分かり易い文章とまるで違います。

 「後記」で紹介しているマリヤ・デエネンの『リラダン作品のなかの驚異』という本に興味が湧きました。
 またこの本の題簽は草野貞之が書いたものだそうです。


 渡辺一夫の書生風の理屈っぽさがフランスのユマニスムと出会ったときに、渡辺一夫の良さが生まれたといえると思います。『ちくま日本文学全集』のなかでも、「フランス・ルネッサンスの人々」からの数篇は、フランス文学者らしい堅牢な体裁があり、文章も平明、内容も洗練されていて圧倒的に味わい深い内容となっています。

 そしてフランスのユマニスムを語る背後に、日本の戦争への反省が鳴り響いているのがひしひしと感じられます。鶴見俊輔の最後の解説「一枚のカード」はさすがに要点を押さえていて、「その研究は、時代ばなれしているようなよそおいをもちながら、妥協のない同時代批判だった(p458)」と指摘しています。他にも「考えあぐねて困っている。この優柔不断な態度をつらぬくところに、渡辺一夫はいる。そのことが、困らないふりをしている他の著作家から、彼を、戦中・戦後の長い期間にわたって、きわだった人としている(p468)」と書くあたり鶴見俊輔は鋭い。

 この全集は、学生を戦地に送るに際して純粋な人柄が滲み出ている言葉を送った「月に吠える狼」や、以前『うらなり先生ホーム話し』で感銘を受けた小説味のあるエッセイ「ある老婆の思い出」、ある外国人との心の交流を綴った「ノーマンさんの思い出」など佳編が収められています。

 恒例の印象に残った言葉。

二元論や、二原則の妄執は「原罪」と共に始まり、おかしいこととおかしくないこと、楽しいことと楽しくないこと、理想と現実との差別も、善悪・正邪の区別と共に生れ出たに相違ない/p34

リラダンの念頭に・・・昂然として理想美を唱い、口を極めて嘲罵すること、これ以外の道はなかったのである/p76

「ボノメ」の言辞を裏返せば、そっくりそのままリラダンの真意になる/p79

以上『ヴィリエ・ド・リラダン覺書』

社会は狂人の言葉に対しては寛大だが、健康人の憂世の言葉はまま痛すぎることがあるから拒否する/p17

Quid hæc ad Christum?(それはキリストと何の関係があるのか?)/p140

自信のあることは偉大ですが、懐疑のないことは悲惨だと考えるからです。・・・信念と懐疑との二つの軸の間を揺れ動いて進んでこそ、有限で悲しい人間の証左でもありましょう/p195

歴史は、ただユマニスム的批判のみによってはいっこうに進行せず、むしろ狂信に近い信念と暴力をも伴う行動とによってのみ局面が打開されることがあったのも確かでしょう/p204

以上『ちくま日本文学全集 渡辺一夫