:多田智満子『神々の指紋―ギリシア神話逍遥』

                                   
多田智満子『神々の指紋ギリシア神話逍遥』(筑摩書房 1989年)

                                    
 先日から引き続いて、多田智満子さんのエッセイを読んでみました。これで多田智満子のエッセイの単行本は『字遊自在ことばめくり』を除いて全部読んだことになります(の筈)。『字遊自在ことばめくり』は新刊で出ているとき、多田智満子にしては力が抜けすぎかと思ってすぐには買わずにいたらそのうち店頭から消え、今では古本屋でも見ることがありません。

 多田智満子さんの本は、読んでいる間じゅう、おいしいお酒を飲んでいるような、とても豊かな気持ちになれます。もう少し長生きして2~3冊でもよいから本を書いておいて欲しかったと、つい身勝手に思ってしまいます。


 『神々の指紋』は三部に分かれていて、ギリシア・エジプトへの旅の経験をもとにした第二部「旅のメモから」を挟んで、前後にギリシア神話を中心とした小論が配置されており、第一部は雑誌連載をまとめたもので、どちらかというとギリシアの神々を軸にした「神々の指紋」、第三部はいろんな雑誌への寄稿を集めたもので、さらに大きな視野から神話を語った「神話散策」となっています。先日の二著『花の神話学』『森の世界爺』と一部重なる部分はあるものの、こちらの方が多田智満子らしく自由な筆の運びが感じられました。

 
 第一部「神々の指紋」で印象的な論考は、
大地の原初性に対する古代人の信仰の数々をとりあげ、禍いの女と恵みの女神という大地母神の二面性を指摘し、さらにそれが「存在としての女性そのもののヤヌスの双面を暗示している(p22)」と指摘したくだり、(「外面如菩薩内心如夜叉」という表現が凄い)
その母権制社会が戦闘集団の乱入によって父性社会に移行する過程でギリシア人のゼウス信仰が生まれたこと(p18)、
また大女神が野獣や若い男神を伴った姿で描かれていた図像が、幼児イエズスを抱いた聖母マリアの像へと変化したり(p17)、青年の姿で描かれていた淫欲の権化エロス像が次第に刺の取れたものになり丸ぽちゃのいたずら小僧となって幼子イエスの図像に生まれかわる(p108)など、古代・ギリシア世界がキリスト教化されていく過程を明るみにしたくだり、
です。

 他にも、捨子の神話の系譜や、女神が3人一組で語られることについての謎(優美の三美神から女怪の三姉妹にいたるまで)など、興味深い話題がたくさん登場します。


 第二部「旅のメモから」は、憧れの地であるギリシアやエジプトを訪れた見聞を書いていますが、厖大な知識を持つ著者が自らの知識の裏づけを現代のその地に発見して歓喜雀躍する姿が印象的です。
息子や娘が出てきたり、教え子の女子学生とのやり取りがあったり、著者の身近な生活が顔を覗かせて、親しみを覚えます。


 第三部「神話散策」では、酒、麻薬、風、竪琴、穢れ、眼、文字などの事象を軸に神話的な考察が語られ、多田智満子ならではの世界が繰り広げられています。とくに「光源としての眼」は、深く広い洞察に満ちていて『鏡のテオーリア』や『魂の形について』の続編と言える趣きがありました。

 「オシリスの影のもとに」では、美を熱烈に愛し宗教もまた美的であったギリシアと、「《在るべき最高のもの》は美や善ではなく、砂漠のごとき無限と石のごとき永遠であった(p266)」エジプトを対比しつつ、エジプトへの愛情を切々と語っています。


 アドニスなどの美少年神や美少年アンティノウスへの関心を隠すことなく披瀝したり、またもや同性愛へ言及することもしばしあったり、ギリシア神話の女性蔑視を指摘したりする女性ならではの視点も多々見られました。


 ありきたりの感想はこのくらいにして、印象深かった文章をご紹介します。

人類への罰として、女が与えられる。・・・何とも奇妙な神学である/p7    <<
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希望が人間を支える明るい推進力であることを認めていたとしても、空しい希望は人間の徒労を長びかせるばかりだ、という観念はギリシア人にとって親しいものであった/p12

さして深からぬ井戸の上に大きな鏡が据えつけてある。井戸の中に降りていくと、地球上の話し声がことごとく聞こえる。そしてその鏡をのぞきこむと、地球上のすべての町、すべての国が、まるで手にとるように見えるのだ/p60

ギリシア語の霊魂(プネウマ)はもともと風の意味であるし、ラテン語の霊魂(アニマ)はどうやらギリシア語の風(アネモス)と関係している。四大元素の中でただひとつ不可視であり、最も非質料的な大気は、動いて風となることでその存在を人々に掲示する。風は不可視で非質料的という点で霊的であり、動き、息づくという点で生命的であるといえよう/p193

千の眼とは星の神話的表現に他ならない/p238

「我は昨日である。今日である。明日である。我が名は秘せられたるものである。」(『死者の書』64章)ここではすでに個我は永遠の絶対我に帰一している・・・この偉大な「帰一」、永遠への合一は、王の死を告げる美しく荘重な文章がつとに表現していたところのものでもあった。「王は、王がそこから出たもうたところの太陽(レー)へと帰一せられた。」/p269