:鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり』

                                  
鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり―読書の喜び』(平凡社 2011年)

                                   
 以前も同じ著者の『月光に書を読む』を取り上げましたが(2010年7月29日記事参照)、今回も、まさに珠玉としか言いようのない小品が続き、至福の時間が過ごせました。

 タイトルの「紙背に微光あり」は、『ヘンリー・ライクロフトの私記』の中の文章がヒントになっているらしく、「あとがき」に紹介されているその文章がたいそう美しい。「ギッシングは・・・夏の夕暮、庭で薔薇の香りに包まれながら読みはじめた本のことを語っている。薄れゆく光のなかで、いつしか引きこまれるように読みふけり、最後の数ページを、初めは夕映えを頼りに、後には満月の光で読んだという。このとき、夕映えとも月光ともつかぬ微光が、紙背をかすかに照らしていたにちがいない(p248)」

 こうしたところどころに挟まれる引用の文章も魅力的ですが、本文も詩的な喚起力の強い文章で、例えば、冒頭二篇目の「杯中の蛇」の次のような文章では、本当に蛇がうねりながら進んでいる様が眼前に現われるようです。「初めて蛇の異様な美しさを知ったのは、あるとき動物園で一枚のガラスをへだてた向こうに、金属質の光沢をおびた錦の太い織り紐が、重たげにゆっくりとほどけて、油の流れるようにすべり出すのを見たときだった(p17)」

 取りあげられている題材は、水中花、蛇、琴、鐘、植物園、魚への変身、色と音との共感覚、白虹、時計、窓など詩的な要素の強いものや、古文書偽造、フェルナンド・ペソアの詩、俳句の国際化、横書きの字の方向、原稿用紙、小説の登場人物の名前など、書物や文芸に関するもの。私の好みに合致しています。

 印象深かったエッセイをあげると、日本の水中花への言及があるプルーストの小説から書き起こし、福永武彦の短編、伊東静雄の詩、内田百輭の随筆と展開してゆく「水中花」、最後に生活のなかで鳴り響く鐘が日欧で同様の感興をもたらしていることに気づかせてくれる「鐘をめぐる人々」、ル=グィンと荘子上田秋成を併せて語った「魚になった話」、宮城道雄の繊細な感覚の描写がすばらしい「色を聴き声を見る」、現実を夢と、夢を現実と思ったり、他人の夢のなかに自分の現実のお告げを見たり、夢と現実が不思議に交錯する「はかない夢」、「さよなら」が「そうならなければならないなら」というハードボイルドな意味をもつことを教えてくれた「さよなら」、時計をめぐる様々な作品を通じて不思議な世界を垣間見させてくれる「時を告げる音」。

 というように、多岐にわたる題材をとりあげながら、そのひとつひとつの題材に関連した話が、古今東西にわたって次から次へと繰り出されてきて、その記憶力の厖大さとその深さに驚いてしまいます。私の大好きな多田智満子の博物エッセイを思わせられました。それもそのはず、最近分かったことですが、鶴ヶ谷真一白水社の編集者で、多田智満子の『魂のテオーリア』と『花の神話学』を担当した人だったのです。

 現在のエッセイストの中でこの人以上の文章を書ける人はいないと思います。新刊で買ってからしばらく寝かせていましたが、もっと早く読んでおけばよかった。次の作品が待ち遠しい。