
安齋千秋『フランス・ロマン主義とエゾテリスム』(近代文藝社 1996年)
前回読んだカトーイ『オルフィスムと予言の詩』の訳者の書いた本で、テーマに繋がりがありそうなので読みました。『オルフィスムと予言の詩』で取り上げられた7人の詩人のうち、重複していたのはロマン主義時代のユゴーとネルヴァルの2人、それ以外に、象徴主義のメーテルランク、現代作家で、私は象徴主義の系譜上にあるとみているJ・グラックについて、章立てされていました。さらにそれ以外に、アレクサンドル1世の提唱になる神聖同盟の宗教的背景、フリーメイソン(この本では、フリーメイスンリー)の分派活動について、書かれていました。
著者はいろんな参考文献を使用していますが、全体をとおしてもっとも重要だと思われるのは、A・ヴィアットの『ロマン主義の隠れた源泉』で、フランス文学とエゾテリスムをつなぐ研究の嚆矢となったもののようです。
個々のテーマに入る前に、まず全体をとおして、エゾテリスムとは何か、エゾテリスムが流行した時代背景、エゾテリスムが求めようとしたものは何かなどについて触れている部分を紹介しますと。
①エゾテリスムというのは、理性論的進歩の思想とは対極に立つもので、原初の世界というのは、神から直接の真智を授けられていた黄金時代であり、その知識の一部が秘義という形をとって一部の人々の間に受け継がれ、密かに今日まで伝えられているとする考え方である。
②その特徴の一つは、秘義の性格にあり、秘義とは、語ることを禁ぜられたものであるだけではなく、言葉で語ることそのものが困難なものなのである。そして、エゾテリスムにおいては、言葉で伝えられた教義自体が重要ではなく、真智を伝えられるに価する者になったという自覚、生まれ変わりの自覚が肝心なのである。
③ロマン主義が興隆しつつあった18世紀末から19世紀初頭は、啓蒙の時代から引き継いだ理性論的不信仰が支配したかに見える時代であったが、エゾテリスムが一方で盛んになった。その理由は、信仰の時代においては、既成教会が人々を教会の枠内に教導することによって、彼らの神秘的衝動を抑え込む形になっていたものが、その枠が外れて噴き出したということである。
④エゾテリスムの宗教的直観は、文学・芸術の分野に置き換えてみれば、ロマン主義の詩的直観に通じるものである。それはまた社会的には、フリーメイスンリーの大流行という形になって現われた。
そのフリーメイスンリーの活動の歴史と、フリーメイスンリーにとって大きな分岐点となったヴィルヘルムスバート総会については、次のようなことが書かれていて、私のこれまで知らなかったことが多く、勉強になりました。
①イエスがエッセネ派の人々に、神に関する深い知識と、至高存在と結ばれるための方法を教え、その中の七人がシリアの洞窟に隠れ棲み、秘密の知識を伝えた。その流れを汲むのが、「聖堂騎士団」の内部の組織「聖堂聖職者参事会」であった。
②フリーメイスンリーは、もとは石工または建築職人の同業組合だった。それが近代的な形に変貌を遂げたのは、17世紀初頭から18世紀初頭にかけてイングランド系およびスコットランド系フリーメイスンリーの登場からである。スコットランド系は、実はスコットランドではなくてフランスで発祥したものであり、「友愛」と「理性論的自然神教」をプログラムとするイギリス系に対して、オカルト的な性格をもつものであった。スコットランド系の分派として、ドイツには「厳格会」ができ、彼らは「聖堂騎士団」の再興をめざした。(他にも多数の分派が紹介されていたが、あまりに細分化され数多いので省略)。
③18世紀末から19世紀初頭にかけてのヨーロッパ・キリスト教界の一部では、既存の新旧教団各派の枠を超えて原初のキリスト教に復帰しようとする合一運動が盛んであった。彼らにとっては、フリーメイスンリーが宗派を超えて一つの場に集まれる格好の場となっていた。
④フリーメイスンリーの各会派の指導者は、自派の教義に関してはオカルト的伝説を捏造しながら、他の会派には真の秘義の一部が伝えられているのではないかという疑心暗鬼に駆られた。そうしたことから、分派が集結する総会が1782年にヴィルヘルムスバートにおいて開催された。その総会は、ドイツ啓蒙派、バヴァリア啓明派など非オカルト的理性論者グループと、エゾテリックなグループとの対決の場ともなった。
フリーメイスンリー内で、似たような教義をもつ集団が細かく分派活動をしながら、影響しあい反発しあうというこの話を読んでいて、かつての全共闘運動に見られたような集団の力学を感じさせられました。
その他、個々の作家については次のような指摘がありました。まずネルヴァルについては、
①ネルヴァルは、狂気の発作に起因する幻覚、睡眠時の夢、神秘家たちの幻視の三つは、互いに同質であり、それらはすべて、神秘世界の啓示であるとみていた。また、彼は、「人間の精神は未だかつて真実でないものを想像したことはない」という信念、つまり想像したものには真実があるという信念を抱いていた。
②『東方旅行記』を書くきっかけとなったのは、ジュール・ジャナンが、ネルヴァルの精神病の発作に驚いて一種の追悼文を新聞に発表したことで、文学的生命を絶たれたと思ったネルヴァルが、病から立ち直ったことを世間にも自分にも納得させるために取り組んだもの。
③『東方旅行記』の作品の主要なモチーフの一つは、人類の原初の宗教体験が、東洋では未だに生き生きした形で存在していることを期待し、それを確認することであったが、結局、彼は体験からはあまり得ることがなく、発想の源を読書に求めた。
ネルヴァルが自分の主治医だった精神科のブランシュ医師に宛てて書いた手紙を読むと、先日読んだフレデリック・トリスタン『バベルの息子』の狂人の手記と雰囲気がよく似ているので驚きました。
次にユゴーについては、
①ユゴーは、島に亡命しているあいだの2年間、心霊術に没頭し、その影響のもとに、『静観』や『サタンの終焉・神』などに含まれる数多くの詩を書いている。→面白そうなので読んでみたい。
②この心霊術とは、1847年にアメリカで生まれた「もの言うテーブル」あるいは「回転テーブル」と呼ばれる迷信的現象の流行で、動物磁気催眠術の流行の跡を継ぐものとして、ヨーロッパをも席巻した。面白いのは、ユゴー家のテーブルを通じて語られるあらゆる種類の霊の言葉は、韻文で語られる場合も散文で語られる場合も、その文体も思想も、常にユゴー自身のそれと実によく似ていたことである。
ユゴーのこの時期のことについて詳しく書いた『ヴィクトル・ユゴーと降霊術』という本を持っているので、次に読むつもりです。
メーテルランクについては、
①メーテルランクの『青い鳥』は、「幸福は私たちの手もとにある。遠くに探すのはやめよう」という教訓的寓意劇として世間に流通しているが、「青い鳥」が「幸福」を意味することを明示したり暗示している箇所は一つもなく、しかも劇の結末において、青い鳥は子どもたちの手から逃げてどこかに飛び去ってしまう。しかもメーテルランク以前にも青い鳥を幸福と結びつける通念は存在していない。
②この作品を先入観なく綿密に読んでみれば、青い鳥は、「人間の眼には隠されている真理」、「森羅万象を律している秘められた原理」の寓意ということが分かる。すなわち『青い鳥』という童話劇は、秘義加入の寓意劇というエゾテリックな作品なのである。
最後に、J・グラックについては、『アルゴルの城』一作品について詳細な解説を行っています。物語の構造を見事に解析していますが、短くまとめようとしても難しく、おおよその感じは次のようなものです。
①『アルゴルの城』の二人の主要人物、アルベールとエルミニアンは、友情以上の絆で結ばれており、前者が「明」、後者は闇と結びつく分身的存在として描かれている。さらにもう一人の女性の登場人物ハイデこそが「光」である。この作品は、光と影のドラマであり、光と影の対比、戯れのなかで物語を進行させている。
②エルミニアンがハイデを凌辱し、失踪後に、瀕死の重傷を負って城に帰還する。アルベールが、小川の辺で水鏡を見ていると、水底からエルミニアンがやって来るように見えた。これは、象徴としての死の世界からの出現であり、イニシエイションを表わしている。エルミニアンは、アルベールのイニシエイションの先達であり、エルミニアンに教唆されたかのように、アルベールもハイデを凌辱する。
③ハイデが自殺した後、残されたアルベールとエルミニアンだったが、物語の最後のパラグラフは、ことさらに主語に人名を明示することを避けつつ、どちらがどちらを刺したか明らかにしないままに、一方の死による両者の合一の成就が示されて、物語が集結している。
J・グラックは、高校から大学にかけて翻訳でよく読みました。『アルゴールの城』も青柳瑞穂訳で読んでいますが、結末のところに、「!!」という書き込みがありました。よほど衝撃を受けたようです。
やはり翻訳ではなく日本語で書かれた本は、とても読みやすい。高齢で頭も働かなくなってきているので、これからは翻訳本は極力避けるようにしたい、というのが切実な思いです。また、この本の成り立ちについて感想を述べれば、私の理解では、近代文藝社というのは、自費出版専門の出版社だと思いますが、どうしてこれだけの本を普通の出版社で出すことができなかったのか、と残念に思います。