
牟田口義郎『あの夏の光のなかへ』(近代文芸社 2002年)
著者の牟田口義郎については、今から25年ほど前に、アミン・マアルーフ牟田口義郎訳『サマルカンド年代記』をとても面白く読み、訳者はどんな人なんだろうと、20年前ぐらいに、『地中海音楽絵巻』を手に取ったところ、ゴーチェへの礼賛に始まりロマン主義美学への陶酔が語られたかと思うと、『千夜一夜』に代表されるアラブ=ペルシャ文化の話題に移り、そしてジプシー、イベリア半島の文化、中世のトルバドゥールへ至る大きな流れについて語るそのスケールの大きさと博学に魅せられました。それから立て続けに、『地中海文明の旅』、『旅のアラベスク』、『プロヴァンス歴史と印象派の旅』、『南フランス紀行―プロヴァンスの町々を訪ねて』を読みました。文学愛好家であり、元朝日新聞記者ということなので、素直で読みやすく、かつ詩的で面白い文章の書ける人です。
今回は、これまで著者が書いたなかから、自伝的な要素の部分を集め、また戦時中学徒出陣で、歩兵砲中隊の隊長代理として滞在した五島列島を再訪する話を新たにつけ加え、それにフランス詩の訳詩も収められたきわめて個人的な内容です。有名な著作家の割には、近代文芸社から出しているのは、一般人の回想録に近いものがあるからでしょう。第一部冒頭の「この世に『置手紙』する」と第五部「八月十五日、再び」は、学徒動員ものといったジャンルになるのでしょうか、島尾敏雄の作品や宇佐見英治などの回想記に近いものを感じました。
偶然というのは不思議なもので、著者は東京大学文学部のフランス文学科で鈴木信太郎の指導の下で勉強し、在学中に「詩学」に詩を寄稿したり、卒論はアルベール・サマンというきわめて世離れした世界に住みながら、就職した朝日新聞の人事の関係で、フランス語ができるからフランス語が公用語として使われているアフリカ北部の中東特派員を命じられ、それが契機となって、結局、中東の専門家となったわけです。しかし心の奥底にはフランスロマン主義や象徴主義に対する熱情を保ち続けていたようです。
大学の後半から、新聞社に入ったあたりでの詩誌「詩学」との付き合いを語る文章では、嵯峨信之、平野威馬雄、岩佐東一郎、江間章子、城左門など、私の好きな詩人の名前がたくさん出てきて、嬉しく思いました。著者の詩も「詩学」に掲載されたいくつかが掲載されていて、機知・想像力に富んだ「魔術師」、「抜け殻になってしまったぼくのからだを/温めにやって来てくれないか」という呼びかけで終わるのが印象的な「波止場」、萩原朔太郎の面影のある「ふしぎな島の入江」、まさしく象徴詩の「沖にある町」などがすばらしい。また学徒出陣に行く前に作った辞世の句、フランソワ・ヴィヨンを模したという「六寸五分の白木の箱に納められて/わが骨は宇宙の小さきを知らむ」も面白い。第三部「フランス近代詩選」の著者訳詩のなかでは、ヴィクトール・ユゴー「砂丘にて」(『静観詩集』より)、ボードレール「異国の香り」、ヴェルレーヌ「三年後」、アルベール・サマン「セイレン」、アポリネール「ミラボー橋」が味わい深い。
いくつか薀蓄を披露しているなかで面白かったのは、エジプトの暦には秋がないとか、カイロでは360日が晴れで南のアスワンでは何年も雨が降らないとか、ポルトガルのファドは「宿命」を表わすラテン語が語源で、ポルトガルの植民地だったブラジルからニグロの哀歌が19世紀初め伝わってファドとなったとか、ランボオ『地獄の季節』(岩波文庫)の小林秀雄訳は「Eucharis(ニンフの名前)」を樹のユーカリに誤訳しているとか、『旧約聖書』のアダムとイヴのリンゴは本当はアンズで、アンズを知らぬギリシア人が翻訳の際にリンゴに置き換えてしまったとか。
戦時中に兵隊として逗留していた五島列島の話題では、福江島の柏崎公園に「辞本涯」と刻んだ石碑が立っていて、これは「日本の果てを去る」の意で、空海が遣唐使で日本を去る際に遺した言葉。この本でも触れられていたポルトガルのヨーロッパ大陸最西端のロカ岬にある「陸ここに尽き、海はじまる」というカモンイスの詩と響きあっていました。
その五島列島に50年後、戦友たちと再訪して、昔下宿をしていた一家と再会しましたが、かつて中心になってお世話してもらった「とき枝おばさん」はすでに亡くなっていて、仏壇の前で、昔一家みんなとよく一緒に歌った歌を口ずさむ場面ではホロリとしてしまいました。