君野隆久『ことばで織られた都市』


君野隆久『ことばで織られた都市―近代の詩と詩人たち』(三元社 2008年)


 いくつかのテーマの異なった文章が収められていますが、そのなかで、タイトルにもなっている「ことばで織られた都市」と「水路の詩学」が、異界のテーマに関連するような気がして、読んでみました。一見、ばらばらな論考が集められているように見えましたが、副題にあるように近代の詩が共通項としてあり、また比較文学的な目線が多くの作品に見られ、「あとがき」に謝辞が述べられていた芳賀徹の影響が大きく感じられました。

 興味深く読んだのは、やはり「ことばで織られた都市」がいちばんで、次に「水路の詩学・断章」、「ポール・ヴァレリー/中井久夫訳『若きパルク/魅惑』」、「危機の詩学九鬼周造『日本詩の押韻』覚え書」が続くでしょうか。ほかに、宮沢賢治論や讃美歌についての論考などでも、自らの感性にもとづいた丁寧な読解が感じられて好感を持ちました。


 「ことばで織られた都市」は、詩のなかで、どこかの町のイメージが浮かび上がってくる作品に注目して、例を挙げながら鑑賞しています。松浦寿輝の「休暇」では東南アジアともヨーロッパとも思われる町、西脇順三郎の『ambarvalia』では地中海幻想、宮沢賢治の「学者アラムハラドの見た着物」などの西域の虚構都市、安西冬衛の「蟻走痒感」に見られる極央亜細亜の植民都市、富永太郎のどこの町とも特定できないハイブリッドな合金都市。

 「どんな詩でも一篇の詩そのものがひとつの人工の街であり都市のように思えてくる」(p114)と言い、「『ことばによって架空の街や都市を創造しようとした作品』を時代や文化を超えて探すなら、それはおそらく・・・厖大な数にのぼるに違いない」(p100)とも書いていますが、私のささやかな詩集のコレクションで、架空の町を探してみたい気になりました。 


 「水路の詩学・断章」では、河川や海とは違い、人工的でどんよりと流れる運河や掘割は、暮れないまま明度を失っていく曇天の時間の移ろいと類似したものであると捉え、ともに退廃を呼び込む性格があると指摘しています。その例として、福永武彦の「廃市」が挙げられ、作品では地名は伏せられているが白秋の柳川がモデルらしいとしたうえで、「廃市」も白秋の柳川も現実の町ではなく、文学の中にしかない非現実の町として描かれていることに注意を促していますが、この考えはまさしく「ことばで織られた都市」につながるものです。

 大林宣彦が「廃市」を映画化した作品、高畑勲宮崎駿が柳川を撮影したドキュメンタリー『柳川掘割物語』、さらには、水とともに暮らす小さな共同体を現代の「桃源郷」として演出しているというNHKのテレビ番組『映像詩 里山命めぐる水辺』について記述がありました。機会があればぜひ見てみたいものです。


 ヴァレリー詩篇は、20年ぐらい前に菱山修三訳で読んだことがありますが、『若きパルク/魅惑』は、長々として理屈っぽくよく理解できず、『旧詩帖』の「夢幻境」、「挿話」、「水浴する女」、「眠る森で」など、明快で美しい詩のほうに惹かれた記憶があります。「ポール・ヴァレリー/中井久夫訳『若きパルク/魅惑』」では、中井久夫訳と鈴木信太郎訳の両者を、原詩と併せて比較し、鈴木訳の方が直訳的で、音の面では中井訳の方がはるかになめらかに口にのぼりやすくスピード感があると、説得力のある説明をしています。

 詩が分かるという言葉がよく言われますが、著者は、「それだけでは皮相な物言いで、その奥に、『この詩ではいったい何が起こっているのか』ということに対する理解と感受がなければ詩を読むのも新聞を読むのもあまり変わらない」(p154)と書いています。私の場合は、理由は問わず、とりあえず惹きつけられる詩は分かったということにしています。


 「危機の詩学九鬼周造『日本詩の押韻』覚え書」では、『「いき」の構造』が「いき」を大和民族固有の他の言語文化体系と通約できないものという前提のもとで探究を行っているのに対し、「日本詩の押韻」は、うって変わって、積極的に他言語との比較を行ない、日本語の民族的特殊性については等閑に付していると、正反対の立場を取っていることを指摘しています。

 九鬼周造は幼いころから聴覚に優れた人だったようです。花の開く音を聞き分けそれを鮮明に記憶していたというエッセイが紹介され、韻の法則もない日本古典に韻を嗅ぎ分けたりできたのも、そうした聴覚があったからとしています。九鬼は、「韻とは聴覚上の事実である。耳に聴くべきもので、眼に見るべきものではない」(p204)と力強く断言していますが、それも自信のなせるわざでしょう。

 巻末に添えられた九鬼周造の引用作品リストを見ると、日本古典から149作品、日本近代詩109作品、ヨーロッパの詩は英仏独伊さらにラテン・ギリシャも含め51作品、漢詩では22作品が挙げられているのに、驚きました。「日本詩の押韻」は、引用ではよく目にしましたが、まだまともに読んだことがありませんでしたので、一度トライしてみようと思います。