ジル・ラプージュ『ユートピアと文明』


ジル・ラプージュ中村弓子/長谷泰/巌谷國士訳『ユートピアと文明―輝く都市・虚無の都市』(紀伊國屋書店 1988年)


 結構大部な本。ユートピアを古代から現代にかけて通覧し、ユートピアの事例や関連した議論がたくさん盛り込まれていました。これもフランス独特の詩的な文章、論理的というよりは修辞的な言い回しに溢れた饒舌体で、読むのに苦労しました。もし私に同じ才があれば、三分の一に圧縮できると思っていたら、最後の解説で巌谷國士が簡潔明瞭に内容をまとめていました。それをそのままここに貼りつけてもいいくらいですが、それでは具合が悪いので私なりに考えてみます。

 この本を読んでもっとも強く感じられたことは、いろんな事例を通じて、一貫して著者がユートピア的気質を追及していることで、ユートピアの性格を、反ユートピアや歴史と比較しながら考察していることです。下記のような仕分けをしています。
ユートピアを信奉する人たちは、構造というものに憑りつかれ、論理を重んじ、理性を貫きながら、しかし弁証的感覚は一切持ちあわせておらず、生成や変貌は彼らのもっとも嫌うところ。閉鎖された空間に住み、家族を否定し、子どもは共同で管理し、みんなが平等で誰もが働く。ユートピアでは乞食、放浪者、貴族、不労の僧侶さえも許されない。なので事件も過失も闘争も戦争も何一つ起きない。それは、はるかな国、遠い昔への憧憬ではない。むしろ未来に想定される「どこにもない場所」の幻影を振りまくという点で、歴史からの脱却である。

それに反し、反ユートピアを信奉する人たちは、理性や現実を蔑視する人々であり、いかなる論理も知らない放浪者、ヒッピー、詩人である。組織という言葉に吐き気を感じ、人工に対して生命を、制度に対しては自然を選ぶ。自由、個性を愛し、原初を夢見ることで、歴史から逃れようとする。

歴史を信奉する人たちは、弁証法を道具とし、構造よりも生成する出来事の相互作用に興味を持つ。歴史は、人間が未来を自由に選択できるものとして、世界をいまだ形を与えられていないものとして考える時に、姿を現わす。各瞬間が厖大な可能性の場であり、歴史は、叶えられなかった多くの歴史の可能性の群の上に聳えている。

 著者はどうやらユートピア的な感性を徹底的に嫌悪していて、どちらかというと反ユートピアに好感を持ち、生成的な在り方をする歴史に関心があるようです。


 ユートピア的なものを奥深く追及しているので、トマス・モアやカンパネッラ、ジョナサン・スウィフトシャルル・フーリエウィリアム・モリスといった従来のユートピアの定番以外に、これまでのユートピア概念には含まれなかったさまざまなものがユートピアの事例として挙げられているのも本書の特徴です。時代を区切って報告しますと、

古代:ユートピアの最古の例はバベルの塔、次に紀元前五世紀ヒッポダモスが建設を企てたミレトスの都市、ユートピア文学としてはアリストファネスの喜劇『鳥』。

中世:千年王国を皮切りに、ボヘミア地方やドイツに広がったこれらアダム派の人々、閉鎖的な空間で独身者が同じ世界を持続させる修道院、敷居をまたぐと別世界となる娼家、規則によって動き線状の非可逆的な時間を持つチェスの管理する時間、トルコの支配体制を5世紀にわたって支えた近衛歩兵制度、人為の首都ヴェネツィア、自然的時間から切り離された機械時計、エデンを再現しようとする自由精神兄弟団、テュルリュパンと呼ばれる異端、税制も所有制もすべてを廃棄するタボール派、財産の共有性を宣言したミュンツァー、大衆から分離され狂気という大きな無名性によって平等化された阿呆船や狂人の塔。

ルネサンスから17世紀:都市計画家こそユートピストではないかとして、ヴァレンティン・アンドレーエの考案したクリスティアノポリスの計画(これは近代のプーレとルクーとルドゥーによって継承された)、シラノ・ド・ベルジュラックユートピア文学、ラ・ヴィクトワール号やカリブの海賊ユートピア的世界、リンネが作成した動植物の一覧表、虚無から存在を造り出す自動人形。

19世紀:サド、マルクス、そしてドストエフスキー作品の中の議論。

 このなかで面白かったのは、フランス船のラ・ヴィクトワール号の話です。マルティニック島沖でイギリス船から砲撃を受け、ミッソンという士官を残して全士官が死んでしまったとき、腐敗している世界を立て直すべきだと説くイタリア人ドミニコ会士に唆されて、ミッソンは国を捨て海賊船として独立することを決める。船内では礼儀作法を重んじ、「神と自由」と書いた旗を挙げ、マダガスカル島の一部を占拠して、村落「リベリタリア共和国」を作る。そこでは、財産は共有にして垣根もなく、人種と生国に差別をつけずみんな平等。驚くべきは、新しい言葉を考案し、水夫たちの野卑な言葉遣いを正そうとしたこと。


 もうひとつ、この本で大きなテーマとなっているのが、有機体と理性的構造体との対立であり、これが現実とユートピアを隔てている大きな深淵としてさまざまな領域に見られるとしています。順不同で羅列してみると下記のような構図になると思います。
有機体)―(理性的構造体):自然―人工、生物―人工物、有機的模様である曲線―直線、腐敗する生きたものとしての自然―変質せず秩序正しい宇宙の自然、不定形なもの―構造、欲望的魂―理性的な魂、首尾一貫性を持たない時間―チェスの管理する時間、自然的時間―機械時計の時間、魂―システム、個の観念―同類と交換可能な植物的存在、不快な生長現象や腐敗―時間の法則を逃れた死、家族を作る動物―役割分担の明確な社会を作っている蟻・蜜蜂、機械のなかで言えば蒸気機関―機械時計、生命の作る円―コンパスで引いた円。

 やや二項対立に厳格で、硬直的な印象はありますが、人間は、この図式で考えると、自然の中で生まれた動物の一種ですから、ユートピアと根本的に対立する存在だと言えましょう。人間はもともと猿と同様群れを成していたのが、徐々に大グループとなり、村を作り、都市を作り、国家を作るまでになりましたが、一方、動物の中で同じように集団で社会を形成しているのが蟻や蜜蜂。彼らが生殖を管理し、集団的に育成し、仕事の役割分業によりユートピア的な世界を築き上げているのに対し、哺乳類である人間は、もっとも反ユートピアな行為である恋愛を行い、だらしなく家族を形成することで、ユートピアから遠い社会を築いているということになります。

 ユートピアの計画の中でつねに問題となってくるのが、この家族のあり方みたいです。ユートピアでは、家族を否定し、子どもは共同で管理する形を取るものが多い。プラトンも国家像を考えるにあたって、人間の自然的本性や、生物学的基盤などは考慮しなかったようです。疑似ユートピアの中でも、例えば修道院では独身主義が通されていましたし、娼家というのは一種の家族の否定ですし、阿呆船やカリブの海賊ユートピア的世界ももちろん家族とは縁遠い世界です。昨今世間をにぎわせている旧統一教会合同結婚式というのは、家族を謳ってはいますが、恋愛を否定し計画的であるという意味で、ユートピア的なものに違いありません。

 今日の社会が、詳細に網羅した法や制度により維持され、コンピュータシステムに管理され、さらに家族が希薄化しつつあったり、化粧法のせいか、私が歳を取っただけなのか、若者の顔がみんな同じに見えてくることなどを考えてみると、ユートピアの描く世界に少しずつ近づいていることが感じられ、人間もニーチェの言う末人やロボット人間に化しつつあるようで、ぞおっとしてきます。