清岡卓行『萩原朔太郎「猫町」私論』


清岡卓行萩原朔太郎猫町」私論』(文藝春秋 1974年)


 架空の町、あるいは幻覚の町を描いた小説である萩原朔太郎の「猫町」についての評論を読んでみました。「猫町」は、朔太郎の詩に熱中していた学生時代に読んで、惹きこまれた覚えがあります。

 著者は、詩も小説も実作する立場から、この作品の内部構造を丁寧に解き明かしています。さまざまな切り口から迫っていますが、ひとつは、朔太郎がエッセイで吐露している心情や、実生活上の問題を点検して、朔太郎の思いがどういう風に反映しているか、もうひとつは、朔太郎の詩作品や小説的作品に、「猫町」に先行するものを探って、それと「猫町」本体との関係を考え、さらに、朔太郎作品に見られる動物のイメージ、とくに猫、犬、鳥についてどう描かれており、猫がどういう位置づけになっているか、また、朔太郎が愛好したポーの影響も見ています。


 いくつかの面白い着眼点がありましたが、本作の考究でいちばんの軸となっているのは、日常的な現実から出発してロマンティックなものへ旅行しそこからまた日常的な現実へ戻ってくるというパターンを、作品のなかで微妙に変奏しながら4回繰り返しているという構造を見抜いたところにあるでしょう。具体的には、
①旅への期待がどこへ行っても同じような景色でどんな旅にも興味を失くしてしまったと告白している冒頭部、
モルヒネやコカインにより幻覚の世界へ旅し自由な世界に遊ぶ試みも、元に戻れば以前よりも心身の状態が劣化してしまうという部分、
③自分の家の近くを散歩していて見たこともない美しい町に来たと思うが、単なる錯覚で、また元の見慣れた町に戻ってしまうという部分、
④遠くの温泉地のほとりを歩いていて迷い込んだ町は、落ち着いたたたずまいで人物も優雅、美的均衡が完璧に保たれていたが、一瞬、鼠が通りを走り抜けた途端に人物が一斉に猫となり、主人公の神経は切れそうになるが、ふともう一度よく見ると、町はありふれた田舎の退屈な町となっていたというこの作品の中心的エピソード。

 このパターンには、前橋の田舎から東京の都会への憧れを抱いた朔太郎が、実際に東京へ出て見て幻滅を味わい、前橋への郷愁を抱くという経験が反映されているとし、この作品を、前橋→東京、東京→前橋の二方向の感情に引き裂かれている朔太郎の心情と重ねて見ているところが、この評論の最大のポイントです。

 また、④の中心的エピソードは、前三者よりも複雑になっていて、日常からロマンティックな町への移行の次にすぐ平凡な日常に戻るのではなく、さらに猫の大集団の戦慄的な幻覚という一段階が加わっていることに注意を促し、最大の高揚から最大の低落へというこの物語のピークを形作っていると指摘しています。

 ありふれた町を見たことのない蠱惑的な町と見てしまうのは、見る側の主体の問題で錯覚であり、その錯覚の原因は、町に入っていく角度が逆だったということになっています。その後、ある商店の看板を見た途端、左側の往来が右側になり北に向かって歩いた自分が南に向かっていることに気づいたということですが、この平凡で退屈な町に戻るという感覚は、朔太郎が都会に幻滅して田舎への方向に逆転するということに似ていると述べ、また、外界には何の変化もないのに見る側の意識が高揚したり低落して幻覚を見るがまた元の平静に戻るというパターンの散文詩が、朔太郎にいくつか見られることも付け加えています。

 『猫町』に先行する作品については、教えられるところが多々ありました。『猫町』より20年以上前に雑誌に発表された「Omegaの瞳」という散文詩のなかに、「ひとが猫のやうに見える」という一節があり、また「ウォーソン夫人の黒猫」という6年前に発表された短篇小説に、「ときとしては往来を行くすべての人間が、猫の変貌したもののように見えたりしはじめる」というような場面があると言います。


 朔太郎は動物のイメージを作品によく登場させていますが、著者は、『月に吠える』を初めとする初期作品にとくに顕著な犬のイメージは、詩人の分身として独特の境地を作っており、他人から罵られるときも自分を揶揄するときも犬のイメージが出てくるとしています。それに対し、猫のイメージは、初期においては詩人自身から切れた客観的な存在として登場していて、その他者性が幻覚としての猫のイメージに繋がっているが、『青猫』においては、猫の姿は暗い墓場の風景に灯る神秘的な照明燈のような存在として、詩人の幻想的な生活の位相に重なるものになっていると指摘しています。


 『猫町』で中心的エピソードが語られた後に、「景色の裏側を見た」(p207)という言葉があって印象的でした。三次元の空間の中に隠された別次元の空間が潜んでいるというのは、なんだかわくわくする考えだと思います。この本には引用がありませんでしたが、『猫町』のなかで、子どものとき壁の絵を見て、景色の裏側にはどんな世界が秘密に隠されているのだろうと、油絵の裏側を覗いたりした体験が語られていて、朔太郎には幼いころから、ひとつの現象に隠された秘密の裏側があるという思いに駆られていたことが分かります。他に、「現実における詩的なもの(幻覚)と睡眠における詩的なもの(夢)」(p197)とか、それに関連した「夢を、睡眠を通じての幻覚と呼んでもいいだろう」(p199)という言葉が心に残りました。

 都合により、次回一回分お休みします。