多田道太郎編『ボードレール 詩の冥府』

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多田道太郎編『ボードレール 詩の冥府』(筑摩書房 1988年)


 前回読んだ杉本秀太郎の論文を含め、9名のボードレール論が収められています。多田道太郎による「あとがき」によると、当初、多田と杉本それに途中で亡くなった大槻鉄男の三人でボードレールを読む会を始め、次々に新しい研究者が加わったとのことで、その成果をまとめたものです。相互の論文の文章を引用しあったりして、真摯かつ楽し気な座談の雰囲気が何となく伝わってきました。これも座長の多田道太郎の鷹揚な人柄(と言ってもお会いしたこともなくよく知りませんが)から生み出されたものだと思います。

 各論文は、ボードレールの作品について、それぞれ得意の分野と思われる独自の視点から考察していて、どれもレベルが高く読みごたえがありました。印象に残ったところを中心にひとつずつ簡単に紹介します。大事な点を洩らしたり、曲解している部分があると思いますが、ご容赦を。

 「〈冥府〉から」(松本勤)は、『悪の花』(1857年)に先立って、1851年に「冥府」の総題のもとに雑誌へまとめた形で発表した詩篇、いわば『悪の花』の原形ともいえる11篇を評釈したものです。ボードレールは発表の都度詩の形を変えているので、その比較も行っています。例えば評釈では、「ル・スプリーン」で描かれている雨のイメージと場末の雰囲気がまさに「冥府」であり、墓地では生者と死者が入り混じっていること、別の「ル・スプリーン」という詩に登場する負傷者は、バリケードの敗北した市民、労働者であることなどを指摘。また、1851年の詩篇が『悪の花』の他の詩篇と違っている点として、率直な心情の発露である作品があること、女性詩、匂いの詩、追憶の詩、ノスタルジーの詩、退行の詩、夢の詩がないことをあげています。

 「群集の発見」(西川長夫)は、『パリの憂鬱』の主要なテーマである「群集」を追ったものです。フランスではすでにデカルトが都市の遊民に近い習慣をもっていたこと、「群集の中の孤独」はルソー、シャトーブリアンスタンダールロマン主義の流れがテーマとし、「パリの群集」はレチフ・ド・ラ・ブルトンヌやルイ・セバスティアン・メルシェに続きバルザックが描いたことを概観したうえで、群集の一人に積極的に関与しその内面に入り込もうとする『パリの憂鬱』に見られる詩人の感性は、怠惰で不毛なイメージのあった『悪の花』の詩人の姿とは乖離があること、「群集の人」は「さまよえるユダヤ人・オランダ人」伝説の現代版であり、晩年のボードレールは自らがさまよえるユダヤ人の相貌を帯びるに至ったことなどが書かれていました。

 「『屑拾い』の栄光」(井上輝夫)は、『悪の花』、『パリの憂鬱』双方に登場する屑拾いに焦点を当て、パリにおける屑拾いの歴史、立場を説明し、詩の解釈を豊かなものにしています。17世紀から19世紀にかけてのパリで、屑拾いは社会の最下層に暮らしながらも確固とした職業意識をもった集団を形成しており、19世紀半ばには『パリの屑拾い』という大衆劇が空前のヒットをしたが、やがてゴミ箱の普及により姿を消して行ったと言います。酔っぱらいの屑拾いが凱旋する様を描いた詩「屑拾いたちの酒」を取りあげ、屑拾いの中には産業社会に対応できず身を持ち崩したナポレオン軍の兵隊もおり、実際に「将軍」という綽名の有名な屑拾いも居て、歴史に裏切られた者の苦々しい表情が読みとれるとしています。

 「落日―あるいはデカダンス詩学」(宇佐美斉)は、落日あるいは夕暮に偏愛を示したボードレールデカダンの観点から見ています。古代人が夕日に寄せる思いは、生・死・再生という円環構造に裏うちされ夢と希望にあふれているが、ボードレールの場合、夜の滅びに向って突き進む直線的な時間意識が露わで、「落日」と「血潮」というふたつのイマージュの結合によって暗示される死への予感があり、また夕べが「犯罪者の友」である一面、「黄昏狂」という精神を病む面を強く意識している。時間の強迫観念を逃れようと、絶えず酔おうとする刹那主義や、落日の一瞬に永遠を見ようとする陶酔の美学へ向かうが、それがまさにデカダン精神であり、ボードレールの美は生命の維持に必要な最小限の自然と最大限の人工とが危うい均衡を保っていて、そこに妖しい魅惑の徒花を咲かせているとしています。

 「目の家族―ガラスと視覚」(天野史郎)は、ボードレールの視覚との関わりを、瞳、鏡、窓ガラスなど視線を映しまた遮るものを媒介に論じたもの。ボードレールは女性の瞳を鏡に喩え、宇宙を映す宝石として描いているが、実は鏡恐怖症で、自らを映しだす鏡は不幸、絶望の鏡であった。窓ガラスも中が透けて見えるのではなく、不透明のスクリーンとして想像を投影できるものでなければならなかった。一方、19世紀にガラスはパサージュや温室の素材として登場し、ボードレールも「パリの夢」で豪華なガラスの宮殿を想像したりするが、晩年の散文詩「貧乏人の目」では、贅沢なカフェのウィンドウの外に貼りつく貧乏人の親子の眼差しを、自らの存在の根底を揺るがしかねない他者の目線として描いていることを指摘しています。

 「詩の探偵」(竹尾茂樹)は、「小さな老婆たち」の詩を中心にして、近代に登場した探偵小説との関連から考察しています。まずポーによって確立された探偵小説では、探偵は、群衆の中の匿名の存在と化した犯罪者を個人として再構成しようとする存在で、背景には近代の都市があるとしたうえで、パリの場末をさまよいながら、あたかも探偵のようになって老婆の素性を突き止めようとするボードレールの詩との共通性を示しています。一方で、19世紀に若者に対する賞揚が高まるなかで、老人が工業社会の廃棄物とみなされて行く状況を踏まえ、ボードレールは、そうした老婆の無残な醜悪さと、メリヨンの描いた廃墟のような古びたパリの街とをつなぐポエジーを発見したと見ています。

 「美食から」(フランスワーズ・サバン天野史郎訳)は、ボードレールの作品に食がどう描かれ、ボードレールが食をどう考えていたかを、フランスの料理に対する通念と併せて考察したものです。不思議なことに、詩においては料理の内容にはいっさい触れられず、生理的欲求としての食、しかもそれを代表するものとしてスープしか登場しないとまず読者を驚かせます。しかしボードレールが料理を理解していなかったのではなく、小説「ラ・ファンファルロ」では食についての蘊蓄を主人公の口から語らせていて、血の滴るような肉、トリュフ、葡萄酒、さらには東洋の香辛料、あげくに、香料を香辛料の中に列挙し、さらにはエクスタシーを究めようと化学的物質(麻薬)にまで言及していることに注目しています。

 「香りまで―キッチュとノスタルジー」(多田道太郎)は、ボードレールの詩に頻出する(と言っても1856年以後の詩に多く見られるとのこと)香りの表現を巡っての論稿です。ここでもやはり人間が自らの動物性を否定しながらも動物の性腺から抽出した香水を身につけるという自然と人工の危うい均衡が指摘されていました。ついで、香りはメタファーによって、世界を香りの「雰囲気」に変貌させるとしたうえで、そもそも詩における象徴とは雰囲気に浸されることであると喝破しています。さらに、ノスタルジーのエキゾチスムへの転化の視点から、フローベール、ネルヴァル、ボードレールという系譜を考えたりしています。最後に、「虚無の味わい」という詩にある「香りを失った!」という言葉には、逆に、立ち昇る強烈な香りを感じさせるものがあることを指摘しています。

 「序」として多田道太郎が、なぜ「悪の華」ではなく「悪の花」という訳にしたかに始まり、各論文に関連したボードレールの詩の特性に少しずつ触れていますが、もし私がこの本の編集者なら、研究会について説明した「あとがき」を「序」にし、この「序」を「あとがき」にもってきたと思います。さらに欲を言えば、この論集はボードレールに多面的に光を当ててはいても、ボードレールの全体像を伝えるものではないので、その「あとがき」で、個々の論文を貫く共通の特性のようなものが浮き彫りにできればよかったと思います。また、フランス語表記を中心に誤植が多かったのは残念で、たぶん執筆者たちは十分校正させてもらってなかったのではないでしょうか。