
宇佐美斉編著『象徴主義の光と影』(ミネルヴァ書房 1997年)
象徴主義に関する本を引き続いて読んでみました。年初に読んだ『日仏交感の近代』と同じ編著者によるもので、執筆メンバーも大半が重なっています。こちらも4年間にわたる研究会の成果として出版されたもので『日仏交感の近代』(2002年~06年)より、こちらの方が年代的には早い(1993年~97年)。
茫洋として掴みどころのない象徴主義を多面的に捉えようとするもので、5章に分かれ、第一章は美術、音楽、映画に関して、第二章は詩を、第三章は小説、第四章は、政治、宗教、科学との関連、第五章は、言語芸術の表現技法に絞って論じられており、全部で21の論文が収められていました。
編著なので、当然のことながら各論文はバラバラのテーマを扱っており、強いてまとめるのも能力不足でたいへんなので、いくつかの論文について印象に残った点だけ記してみます。
編著者による序文「象徴主義をどうとらえるか」では、象徴主義は、大きく見ればロマン主義の思潮の流れの上にあるものとしながら、ロマン主義では、天才たちが、霊感の赴くままに圧倒的な宇宙を創造し世界に宣揚しようとしたのに対して、象徴派は寡作に悩み苦渋を訴えながら秘教的な小宇宙を錬金術師のように案出したと、峻別していた。
吉田城の「神話の変貌―フランスの作家はモローをどう見たか」は、ギュスターヴ・モローを取り上げ、異端の画家と思われているが、美術アカデミー会員であり国立美術学校の教授であって、聖書や神話に題材を取った正統派絵画の伝統を受け継いでいたことを強調する一方、近代嫌悪者であり社交クラブやサロンなどの都市生活から距離を置き、古代の神話世界に没入したことに注目している。
「音楽と詩のあいだ―無音のeの除去と詩句の変質(ピエール・ドゥヴォー森本淳生訳)」は専門的過ぎて理解できなかった部分もありましたが、面白かったのは、アリア/レチタティーヴォという音楽における構造を、文学における詩句/散文に置きかえるとらえ方があると知ったこと。もう一つは、詩人や朗誦家という存在自体に着眼していることで、20世紀まで詩的創造の中心には、ホメロス的な吟遊詩人や叙唱家といった人物がメッセージに統一や人間的尺度を与えていたが、現代では兄弟同胞に語りかけるという超越的尺度を失ってしまったと指摘していた。
小山俊輔の「ヴェルレーヌ、もの言う死児」では、以下の二つが印象的。ヴェルレーヌは、高踏派から出発したが、高踏派の形式的な完成を目指し美的なイメージを造形的に作り上げるやり方は得手ではなく、心象風景のような映像や言葉の音楽性を追求したこと。初期に真実在の探求を目的としていたロマン主義が、真実在が失われたことへの嘆きを美的に語るという方向に変質していったが、この地平はヴェルレーヌの切り開いた象徴主義に通ずるものがあること。
小西嘉幸「もうひとつの道―ロートレアモンの位置」では、ロートレアモンをまともに読んだことがなかったので、勉強になった。『マルドロールの歌』には隠喩が見事なまでに欠落していること、奔放な想像力はロマン主義の過激な末裔を思わせるが、論理、理性、推論や幾何学的形態への偏執において古典主義的な知性の持主であったこと、有名な「老いたるわだつみよ」の頓呼法の骨格だけを見ると、エドマンド・バークによって定式化された崇高美学の正確なカタログとなっていること、「~のように」の直喩が自己増殖的に展開するが、これは複数の比喩によって多面的に表象しようとしているわけではなく、比喩の一対一の必然性を崩し散乱させることにあったこと、また有名な「ミシンとこうもり傘のように美しい」をはじめ「永久鼠取り器」や「七面鳥の肉冠のように」などの文言が当時の新聞広告や百科事典からの借用であったこと、これについては否定的な見方ではなく、シュールレアリスムのコラージュの手法を先取りしたと評価していた。
柏木隆雄「ジュール・ルナールの挑戦」でも、ルナールを読んだことがなかったので、知ることが多かった。象徴主義詩人たちのあいだにあって、詩人の生態はもちろん象徴詩自体にも違和感を抱きながら、次第に詩から散文へと移行していった過程が描出されており、しかも詩よりも散文の方に象徴詩的な味わいがあることを指摘していた。著者が推奨していた『博物誌』のなかの珠玉の一篇「木々の家族」、晩年の傑作『ラゴット』の「秋の葉」なる作品を読んでみたくなった。
内藤高「テクストの含むドラマ―クローデル・象徴主義・日本」で、いちばん印象的だったのは、『百扇帖』の「不在の喚起」という特徴を示す引用で、「白牡丹の芯にあるもの それは色ではなく色の思い出 それは匂いではなく匂いの思い出」「目を閉じる時 バラは言う、私はここにいると」といった詩句の神秘主義的、禅の公案的、あるいはアンジェルス・シレジウス的な様相と、「ある種のバラ色それは色というよりは息」「香はもはや煙しか残らず 煙はもはや匂いしか残らぬ」というように、視覚的な実体性が音、匂い、煙など所有不可能な感覚に置きかえられていく有様、またそれらについて書かれた次のような文章、「『百扇帖』が鋭く表現するのは、消失にせよ、出現にせよ物が示すある瞬間、時間の微妙な変化のなかで一瞬示されるその姿・・・物を再現することではなく、テクストのなかに、いかに運動変化を作用させるか、それを通して、一回的な束の間の瞬間を現前させるかという問題なのである」(p126)。
小林満「パスコリにおける象徴表現について」は、なぜかイタリア詩人が取り上げられていたが、レオパルディの不確定性の理論に興味がわいた。無限を把握することはできないが、有限なものを限られていないものに変換し、それを無限なものと錯覚することはでき、そうした「不確定なもの」を「無限」と混同させるところに、詩の快楽があるとする理論。この快さは、見えないものに対して想像作用で空間を広げるところにある、というのはまさしく象徴派の理論だ。そして実際の例として、「歌声が遠くから聞こえたり、実際にはそうでなくてもそのように聞こえたり、あるいは少しずつ遠ざかって感じられなくなりつつある場合、その歌声はあいまいで不確定な印象ゆえに快い・・・とりわけその音源が見えなければなおさら快い」(p139)という引用があった。名前も知らなかったパスコリという詩人が、このレオパルディの詩学を自分なりに変奏させて、霧や靄でものの輪郭をあいまいにさせたり、視覚を消し去って聴覚だけで世界を描くなどしているというから、また読んでみたい。
田口紀子「象徴の場としての『自然』」は、ルソー『新エロイーズ』、ベルナルダン・ド・サン=ピエール『ポールとヴィルジニー』、シャトーブリアン『アタラ』の三作品を取り上げ、自然が単純に自然として描かれるのではなく、『新エロイーズ』では、「私」に知覚され内面化された自然としてであり、『ポールとヴィルジニー』では、椰子の木や紅雀、嵐が、物語のなかのなにものかを象徴している自然として描かれている。『アタラ』では、自然を通して神が介入してくるので、それを登場人物が読み解こうとする。これら三作品にみられる、自然の中に内面世界を映し、そこに世界を動かす統一原理のあらわれを見ようとする態度は、象徴主義の基本原理につながるものであるとしている。
柏木加代子「フロベールと象徴主義の潮流」では、作中の人物や動物が何かを象徴しているという視点から、『ボヴァリー夫人』に登場する盲人や蛇を取り上げ、その蛇が『サランボー』では重要な役割を担っていることを述べ、さらに『聖アントワーヌの誘惑』で初稿では超自然がアレゴリーとして描かれていたが、決定稿ではシンボルにに重点が置かれたものになっていることを指摘し、また『ヘロデヤ』におけるサロメのように、独立した象徴的イメージが作品を構成する技法からも、フロベールを象徴主義の先達として捉えている。
三野博司「『現代小説』をめぐって―ジッドとヴァレリー」では、ジッドの『アンドレ・ワルテルの手記』、『パリュード』と、ヴァレリーの書いた唯一の小説『テスト氏との一夜』を取り上げ、友人同士であった二人がともに反小説ともいうべき象徴主義的な小説を実現しようとしていたことに光を当てる。ジッドは、『アンドレ・ワルテルの手記』を通じて、情景もなく時間場所にとらわれずただ一人の登場人物の頭の中だけで進行する物語を模索し、『パリュード』では物語のなかに同じタイトルの物語を書く男を登場させる「中心紋の手法」を使い「書く」という行為を問うたが、やがてそれらの試みから離れて行った。一方、物語を忌避し知性の劇を模索するヴァレリーは、ジッドが試みた道をさらに進めて、『テスト氏との一夜』を完成させた、と両者を比較し論じている。
多賀茂「象徴の場としての無意識―ハルトマン、ヘルムホルツ、ルスロ」で、とりわけ興味深かったのは、19世紀の自然科学の発展によりそれまで意識されずにいた作用の発見のうち、人間の感覚器官に伝わる音の振動を目に見えるようにした実験音声学の成果で、聞こえない音による倍音の効果が実証されたり、自由律詩においても無意識の次元では古典的なリズムとは別の規則性があることが明らかにされたこと。
鈴木啓司「エリファス・レヴィのオカルティズムにおける象徴作用」では、レヴィの功績として、「すべてを明言することを信条とする西洋哲学に、すべてを語ることはしない哲学のかたちがあることを示した」(p266)ことを挙げ、またレヴィの「それ自体は語りえぬものを対立物との対比によって示唆しようとする手法」とディオニシオス・アレオパギタの否定神学の理念との相似を指摘し、この否定によって物事を示そうとする態度を象徴主義的としている。
大浦康介「『内的独白』の誕生―E・デュジャルダンの『月桂樹は刈られた』をめぐって」の『月桂樹は刈られた』は翻訳で所持しているがまだ読んでおらず、これがジョイスの「内的独白」のもとになったというのは初めて知った。小説からの引用文を読むと、モノローグの世界で、未来時制が頻用されているのがなかなか面白く、主人公と同時に小説世界を動き回る不思議な感覚になった。これは、回想記小説に見られるような遠い過去の物語を固定した一時点から語り起こす「回顧的語り」でもなく、書簡体小説や日記体小説に見られるような近い過去を日々移動する現在から語る「挿入的語り」でもなく、物語の時間と語りの時間とが同時の「動的語り」だとしている。
松島征「物語テクストにおける象徴の作用」では、ボルヘスの手法を、ヤコブソンのいう範列関係での叙述としているところに眼を見開かされた。また「中心紋の手法」の小説の例が多数挙げられ、ジッド『贋金づくり』、ジョルジュ・ペレック『人生 使用法』、セルヴァンテス『ドン・キホーテ』第一部のエピソード、『ラーマーヤナ』、『千夜一夜物語』第602夜などそれぞれの特徴が示されていた。そして「中心紋」の物語が読者に対して漠然とした不安を抱かせる理由の説明として、「もしも、あるフィクションの作中人物が読者とか観客になることが可能であるとするなら、その読者や観客であるはずのわれわれだって虚構の人物であるかもしれない、と・・・暗示しているからである」とのボルヘスの言葉を引いている。
宇佐美斉「象徴詩の難解さと解釈をめぐって」においては、陳述的な叙述が客観的現存物を表わすのに対し、象徴的な叙述の内容は語る者と聞く者との意識のうちにのみ生じるものであり、その場合書く行為と読む行為の両者が密接につながっていると前置きしたうえで、ロマン主義が内面の表出を個人的で一方的な語りかけで行なうのに対し、象徴主義では、読者の内面との呼応関係を重要視しているとしている。象徴主義作品の場合、読むことはもはや受動的なものではなくなり、自らが能動的にテクストを織り上げる姿勢が求められるとしている。