ホーフシュテッター種村季弘訳『象徴主義と世紀末芸術』


ハンス・H・ホーフシュテッター種村季弘訳『象徴主義と世紀末芸術』(美術出版社 1981年)


 引き続いて象徴主義絵画に関する本を読みました。象徴主義というより19世紀から20世紀の幻想絵画について幅広い視野から書かれているように見えます。ひところG・R・ホッケ『迷宮としての世界』、ブリヨン『幻想芸術』、澁澤龍彦『幻想の画廊から』と並んで、幻想美学のバイブルのように奉っておりました。今回は再読と言いたいところですが、図版や挿絵を眺める程度で読んではおりませんでした。実はほかにもその類の本が何冊かあります。

 この本の最大の特徴は、アート紙別刷り図版96点、文中の挿絵86点と、たくさんの作品が引用されているところで、それらの絵がどれもすばらしいということ。また文章についても、いろんな画家、文学者、思想家からの引用があり、文章の半分が引用といった印象です。そういう点から全体の性格としても、一種の事典的なところがあり、著者が自分の好きな絵を集めてきて、それを自分の好きなテーマ、様式別に分類をして提示をしたというのが本当のところのようです。

 多くの作品に言及している分、一つの作品についての綿密な美学的鑑賞がなされていないように見えます。ちょっと触れただけで足早に過ぎて行く感じで、前回読んだ喜多崎親の詳細にわたった検討に較べると物足りないところがあります。象徴という概念についても、あるものが隠れた意味をあらわすことを象徴と位置づけて、アレゴリー的なものから、観相学、顔やしぐさの表情、筆跡、ある種の風景なども象徴のなかに含め、さらに精神分析の無意識の領域も隠れたものとして、象徴の観点から捉えています。何でも象徴ということになって象徴という概念が拡散するばかりです。悪く言えば、凝縮しまとめる能力に欠けているのでは。それで事典的な印象を受けるわけです。


 と言っても、いくつかの論点があるので、著者の主張を自分なりにまとめてみます。まず象徴主義美学をブルジョワ美学と対立するものとして位置づけ論じています。これはこれまでにも出てきた論点。
①18世紀初頭に、百科全書派と啓蒙主義ディドロの影響のもとに、芸術を道徳的教育的に利用するというブルジョア美学が誕生し、国庫補助でまかなわれる美術学校が設立されたが、一方、そうした実証主義的自然科学的な思考法に対抗し、芸術の自由な創造を称揚するものとしてサンボリスムが生まれた。

ブルジョア的繁栄は地上の天国の実現を目指していて、たしかに快適ではあるが、没趣味のなかの無事息災、みせかけの道徳、精神の偏狭さなど矛盾に満ちたものであった。サンボリスムは、地上においてむしろサタンの王国、地上の地獄、反世界を築こうとした。

③しかし無神論者がキリスト教的世界に結びついているというのと同じ意味で、サンボリスムブルジョア的世界に結びついている。ブルジョア的なものの超克そのものが依然としてブルジョア的であり、ボヘミアンブルジョアジーの影の下で放浪者風の画家生活を送るという構図になる。


 象徴主義の前触れとしてのロマン主義への言及もいくつかありました。
①プロポーションと遠近法に焦点をおいているアカデミーの正しい描き方に対して、ロマン派画家は遠近法の克服に最初に取り組み、画面を結合力のある律動によってアラベスク状に造形し活気づかせるようにした。また啓蒙主義にあって地理学以外のなにものでもなかった風景を自然における神のはたらきの象徴として宗教的意味を付与した。

②ロマン派は、ノヴァーリスの書くように、「ありきたりのものに謎めいた外見を、既知のものに未知のものの気品を、有限なものに無限の意味を付与すること」をめざしたが、神的なものとの交通を熱望しながらそれが達成されえないために、ロマン派の基調はあくまでも憧憬にとどまった。

③ロマン派は、感情、感性のはたらき、個人的な体験から象徴を形成した。強固な現実との葛藤からイロニー、メランコリー、ペシミズムが生じてくる。遠い過去へ向かう定かならぬメランコリックな憧憬である追憶は、19世紀全体を貫いているもので、ロマン派の遠方風景画や廃墟画はこれを表現している。


 ブルジョワ美学に対抗した具体的な様相については、ブルジョア美学のモットーである模写的性格を排除したピラネージの牢獄絵画、理性に委ねられた世界を懐疑し迷信や人間性の夜の部分に着目したゴヤ、形態の解体によって自然の現象を透明にし宇宙的な力の作用を感知可能にするターナー、靄のベールをかけて肖像や場景を異常化するカリエール、形体を夢像や幻影と化す光線で画面を覆うシャヴァンヌ、異化された時刻の自然を描くホイッスラー、完成を旨とする古典主義に対抗して廃墟や未完成像を造形するフリートリッヒやモロー、夢の論理を導入したゴヤとブレイク、距離とプロポーションのデフォルメを行ない時間・空間の一体性を解体するクリンガーなどが例示されていました。

 サンボリスム絵画のその他の一般的特徴としては、色彩については、不安や柔弱な憧れにみちた感覚を醸し出す青、ルドンが「霊性の光」と呼んだ黒、自然の色のなかにはない金地がよく使われること、建築では建てられることのない建築が設計され、主な題材としては、芸術家の月遊病を宿しているピエロ、謎めいた女性を象徴するスフィンクス、蛇や波打つ髪、冷たい眼に装われた罪の象徴としてのイヴ、穀物や果物を収穫する豊饒神としての女性像、女性の毛髪・眼・口、悪の英雄であるサタン、様式としては、生命の流れを象徴しあらゆる運動をそこにつなぎ込んでしまう蛇状曲線、模倣の対極であり遠近法を克服するものとしての模様、また軸状の画像構成・アラベスク風の律動化・純粋な黒白の対比の装飾的な面の充填法などが挙げられていました。


 象徴そのものの特質の考察について触れている部分は、次のようなものです。
①実在の事物を象徴とみるには鑑賞者側の用意が前提となる。絵そのものが象徴的なのではなくて、鑑賞者の解釈を通じてそれが象徴となる。象徴は解読不能なのではなく、多義性をもっているということであり、幾通りにも解釈ができるということである。そして鑑賞者が謎めいた絵を見ながら身をゆだねる感情や体験のうちにこそ、その絵画の意味があるのである。

②ある絵についてある批評家が、「この絵が意味するものは何だろう? 子どもが手に持っているのは何か? 私には分からないがおそらく画家にも分かっていない」と書いているように、芸術家自身もその絵の意味するものは分かっていない。ゴーガンは「絵画は暗示を与えるので、描写してはならない」と言い、ルドンも「私の素描は暗示はするが定義されることはない」と言っている。


 最後に、引用されている図版、挿絵のなかで、私のお気に入りを披露しておきます(掲載順)。
図版では、G・F・ワッツ「希望」、アドルフ・メンツェル「アトリエの壁」、ベルンハルト・パンコーク「悪魔の箱」、レニー・ローナー「難破者たち」、フランシスコ・デ・ゴヤ「袋競争をする人たち」、ジョン・マーチン「地獄から地上への橋を架けるときの罪と死」、ド・ラ・ボルドならびにツァラウベンによる「悪魔の橋」、モーリス・ドニ、トマス・ア・ケンピス「キリストのまねび」のための挿絵、クレメンス・ブレンターノ「生命の樹」、トマス・コール「巨人の高脚杯」、アルノルト・ベックリン「寄せ波」、クルト・レグシェク「最後の王」、ロドルフ・ブレダン「死の喜劇」、ギュスターヴ・ドレ「波止場にて」・「生と死の間の骰子遊戯」、フランツ・フォン・シュトゥック「スフィンクスの口づけ」、ギュスターヴ・モローサロメの踊り」・「まぼろし」、アルベルト・マルティーニ「地獄の最後の時」。

 挿絵では、ギュスターヴ・ドレ「風流滑稽譚」挿絵、アルフレッド・クービン「死が世界にやってくる」、アルフレット・レーテル「絞刑人としての死」、エルザ・オリヴィア・ウルバッハ「不安な夢」、モーリッツ・フォン・シュヴィント「自然の有機的生命」。
 挿絵のなかのフィドゥスの「輪環」という作品は、昨年の万博で話題となったリングによく似ています。