喜多崎親『暗示の構造』


喜多崎親『暗示の構造―象徴主義絵画のレトリック』(三元社 2025年)


 私にしては珍しく近刊、だけど古本。象徴主義の重要な技法である暗示が、絵画においてどのように展開されているのか、「暗示」というタイトルに惹きつけられて読んでみました。著者の主張は、執筆意図や各章の構成を説明する「序論」、そして七つの章の末尾に置かれた要点のまとめの「結論」、最後に全体を通覧する「結論」と、何段階にもわたって繰り返し書かれているので、きわめて分かりやすい。

 大きな論点は、美術における象徴の意味するもの、印象主義との関係を中心とする象徴主義の美術史的位置づけ、美術における暗示のあり方とくにコレスポンダンスをめぐって、ということになるでしょうか。論述の進め方は、多くの批評家、画家などの文章を引用しつつ自身の考えを展開し、暗示のあり方についての探求では、個々の作品の画面について技法や構成を述べるのみでなく、作品のヴァリエーションや他の美術作品との比較を通じて克明に論証しており、説得力がありました。

 美術における象徴についての議論は、私なりにまとめると大まかに次のようなものです。
①宗教美術で象徴を扱う場合、象徴が成り立つためには、事物が正確に描かれていて、かつ見る者にそれが何を象徴しているか認識されていることが必要である。ところが象徴主義美術においては、事物とそれが意味するものが曖昧で、具体的に示さず、「喚起」あるいは「暗示」という形で提示するだけなのである。

②その根本には、イデアは直接に認識できないものであり、もし精緻に再現してしまえば、それはイデアではなく対象そのものとなってしまうという神秘主義的な考えが潜んでいる。イデアを描くには、現実を模倣しない形、線、色彩などを用いなければならないとするのである。実際には表わすべきイデアが予め認識されているのではなく、制作における表象の操作の過程で、現実や明確なメッセージとの乖離によって喚起される効果をイデアと呼んでいるということに他ならない。


 象徴主義の美術史的位置づけについては、いくつかの視点がありました。
①ひとつはペラダン主催の薔薇十字サロンのような神秘主義的作品を含めるかどうか。これは象徴主義を様式から定義するか、意味から定義するかという評価の仕方にも関連してくる。象徴主義絵画は、一つの様式で括ることができないことから、人間の内面に目を向けた反自然主義的傾向という意味から捉えられ、写実主義的な絵画の系譜に対立するものとして位置づけられた。対象を再現するよりも意味を伝えようとする点で中世の美術と親和性があり、また、第二のロマン主義という見方が成立した。

印象主義象徴主義と対立するものとして見るかどうかという点では、印象主義は事物を感覚の翻訳によって模倣するという点でレアリスムであり写実主義の系譜に入るものとみなされたが、次第に共通点が見いだされるようになった。例えば、モネの「ルーアン大聖堂」連作には、光と色彩による夢想や神秘性の喚起という象徴主義的な要素があるという見方である。


 美術における暗示のあり方については、具体的に、モロー、ゴーガン、ルドン、クノップフミュシャの作品を取り上げて論証しています。
 モローについては、「踊るサロメ」や「出現」を例に、装飾との関連で論じられていました。
モローの絵の特徴である線描が身体や事物の飾りからはみ出し、画面全体を覆うように描かれているのは壁面装飾の文様に通じるとし、文様では例えば、花だと認識できる形態を残しながら、実際の植物の質感や構造を再現しないという非再現性が特徴で、この非再現性は象徴主義の暗示的効果を生むためのひとつの方法だとしている。


 ゴーガンについては、「説教の幻視」を例に、画面構成のあり方における象徴主義的手法を論じています。
①ゴーガンは説教を聞く修道女と、彼女らの幻視を同一画面に描こうとして、写実的な空間でもなく、中世の描法でもない方法を模索した。修道女と幻視のあいだに木の幹を配置し、小さな牛を描くことで遠近感を破壊し、全体的に遠近法を破壊するクロワゾニスムを採用して、現実と非現実を接続させた。

②オーリエがこの絵を評するに際し、描かれていない聖堂内の香りや説教師の声を大きくクローズアップしていることに着目し、著者はそこにボードレールのいうコレスポンダンスの効果があるとしている。


 ルドンでは、「目を閉じて」、版画集『幽霊屋敷』、「ド・ドムシー男爵夫人の肖像」を例に、いくつかの視点から論じられていました。
①ルドンには、「目を閉じて」以外に、閉じた目を描くさまざまな作品があり、また参考にした彫像を示唆しているが、それらは共通して「瞑想」というイメージを伝えようとしているのではないか。そこには様々な作品がお互いに応え合うという一種のコレスポンダンスの作用が働いているのではないか。

②版画集『幽霊屋敷』は、ブルワー=リットンの同名小説にもとづくものだが、一般の挿絵が第三者的な視点で描くことが多いのに対し、ルドンはあくまでも小説と同じく、私の目の前で次々と展開する怪異をその謎のまま描き出している。さらにルドンは、自分の興味に引きつけて、闇の中の光、肉体の断片、蠢く微生物、動物的横顔などを巧みに配し、小説の図解というより自らの作品のネットワークの一部を作りあげようとしている。
→リットンの小説自体が暗示的であるという考察が抜けているのではないだろうか。

③「ド・ドムシー男爵夫人の肖像」の茫洋とした背景の地は、中世絵画の金地背景と同様、幻想的空間を発生させる装置である。またルドンの肖像画に花が女性とともに描かれ、かつその境界が曖昧に描かれることが多いが、これは隠喩の相互作用によってお互いが高められるという手法である。


 クノップフでは、「青い翼」と「白、黒、金」、それに「私は私自身に扉の鍵を掛ける」など、多くを例に、次のように論述しています。
①「青い翼」は「私は私自身に扉の鍵を掛ける」を縦長の構図で展開し、かつまた女性とヒュプノス像の場所と顔の向きを入れ替えたものと考えられる。「白、黒、金」では、彫像の顔は「モンドラゴーネのアンティノウス」に変えられ、その眼差しと輪郭は、顔の向きを四分の三正面に変え、後ろに立つ女性の顔との類似を強調し、両者の間にコレスポンダンスが生じるように操作している。画家の目的は、いかに絵画で神秘性を示唆するかというレトリックにあったと考えられる。

②「グレゴワール・ル・ロワとともに―我が心は過去に涙す」では、鏡の円形の枠と、橋脚とその反射映像が作る円形とが連続して反復を作り出しており、女性とその鏡像の関係も、建築とその反射映像の関係とパラレルになっていて、コレスポンダンスに対する強い意識を認めることができる。


 ミュシャのポスターにおける広告表現の象徴主義的あり方については、次のような指摘がありました。
ミュシャ以前のポスターでは、明白で的確な商業的情報の伝達が求められていたが、ミュシャは、優雅な女性像を中心にし、商品を小さくあしらった。しかしその女性像は、商品と形態的に類似していたり、商品を擬人化したりしており、このように両者の関連を示唆する方法は、象徴主義の絵画によく見られるものであった。

②「ベネディクティーヌ酒」のポスターを例にとると、それまでのポスターの「ベネディクティーヌ酒はおいしい」というアピールは文章構造をもった統辞的メッセージであるが、ミュシャがリキュールの由来や香りをイメージに置き換えて示すのは範列的メッセージといえる。


 著者は、象徴主義の文学理論から類推して絵画の技法というものを考えていますが、逆に、象徴主義的な小説や詩作品について、このような技法的分析はできないものでしょうか。