:象徴主義に関する二冊

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チャールズ・チャドウィック倉智恒夫訳『象徴主義』(研究社 1972年)
アルベール=マリ・シュミット清水茂/窪田般彌訳『象徴主義マラルメからシュールレアリスムまで』(白水社 1992年)


 これだけ続けて象徴主義関連の本を読んでくると、いささか食傷気味。両方とも概説書なので、そんなに新しい発見はありませんでした。チャドウィックの本が、象徴主義の立役者であるボードレールヴェルレーヌランボーマラルメヴァレリーにほとんどの紙面を割いているのに対して、マリ・シュミットの本は、群小詩人にもスポットをあてているのが特徴。
 
 読みやすさから言うと、チャドウィックの本に軍配があがります。マリ・シュミットの本は、フランス人にありがちな多くを語ろうとする能弁、100パーセント正しい数学の公理を述べるような断言、復習するかのように何度も繰り返す教師口調が目立ちました。詩の引用がひとつもなく、一方的に喋りまくる独演会を聞いているような感じ。訳文も少し分かりづらい。


 チャドウィックは、象徴主義のオーソドックスな手法やそれぞれの詩人の特徴を概説書らしく簡潔に述べています。象徴主義の手法については、対象を徐々に喚起しただ漠然とほのめかす暗示的表現、悲哀と不安の感情をもたらす妙にはかない感じの律動、曖昧さを醸し出す奇数脚などの特徴を概括し、詩人については、ボードレールに見られる永遠なるもの無限なるものへの憧憬を指摘し、ランボーの『イリュミナシヨン』が、驚くべき映像をたたみ重ね、文章の動きにつれて潮の満干にも似た変化にとんだ律動構造を作りあげている点を明らかにし、ヴァレリーは伝統的な詩人であるが、音楽性に富み、描写よりは暗示的な性格が色濃いと述べています。

 他にも、象徴主義の影響を論じたところでは、小説ではマルセル・プルーストがもっともその影響を受け、他国では、アイルランドのW・B・イェイツ、ロシアのブリューソフ、ヴォルインスキー、ベールイらの名前をあげています。巻末の欧文参考文献は充実。


 マリ・シュミットの本の良い面をあげるとすると、象徴主義に溺れることなく、批判的な目をもって語っていること、それにマラルメから説き起こしているところが一種の炯眼。それぞれの詩人に対する評は的確なように思えました。

 高踏派とマラルメのつながりを指摘したり、ヴェルレーヌの作品を酷評しながらも『言葉なきロマンス』だけは高く評価し、シュルレアリスム象徴主義の最後の後継者と位置づけるなど、著者らしい視点もうかがわれました。

 また面白かったのは、手厳しい評価を下しているその表現の仕方。G・カーン、V・グリファン、S・メリルの三人をサンボリスムの忠実な弟子と言いながら、「運の悪いことに、この三人のうちのだれひとりとして、ただひとつの《象徴》をも創造する才能をもっていないことを認めねばならない」(p73)と切り出し、カーンについては「マラルメのあの強靭な意志に似たものは何ひとつない」、グリファンを「もっともだらだらした不精者」(p73)とこき下ろし、メリルの作品に対しても「みずみずしい田舎の地所の林間の空地にたった蚤の市のようである」(p74)と酷評しています。

 その後も勢いは衰えず、R・ギルに対して「落後したオルフェでもある彼は、野心的ではあるがほとんど解読不能な作品だけしか生まない」(p78)とか、モレアスには「手管を用いながらそれら(ボードレールら先人)の詩を模倣する。・・・人はモレアスの怠惰な狡猾さにすぐさま気がつく」(p80)、ヴェルハーランを「血の気の多い自分の気質の犠牲になっており、けんかさわぎだけをのぞんでいる」(p98)と批判しています。群小詩人のなかでは珍しくラフォルグとレニエに対しては高い評価を与え、紙面を多く割いていました。

 シュミットの本で印象に残った文章をいくつか引用しておきます。

魂の流れは継続的である。音楽は純粋な持続である。・・・偶数脚の詩句からなるひとつの詩作品において、詩の流れは各詩句ごとに中断されてしまう。それゆえ、魂の流れの表現はたえず中止されることになる。それに対して、奇数脚の詩句は、その不完全なリズムのために、読者の精神をも耳をも満足させず、リズムの上での補足がぜひとも必要であると感じられるので、それを見いだすために、読者をためらわず次の詩句へと移らせる。幸いにも、またしても充足感を得なかった読者は、断絶なしに、やむをえず、詩句をつなぎ合わせながら読みつづけることになるのである(p32)。

精神的要素の数が多ければ、詩節は長くなる。・・・詩節の内部では、精神的要素のひとつずつが相対的な自律性を保っており、詩句とでもよばれるものを形成する。この場合の詩句とは、あまりにも豊かな韻やあまりにも特殊な半階音によって語を区切ると詩節の連続性がたち切られるので、それを避けながら、定着させようとする長い、または短い語群である。・・・こうして自由詩は、・・・内的持続の継起する瞬時瞬時に完全に忠実な記録にほかならないのであり、その刻々に《詩=象徴》が・・・生まれるのだ(p68)。

サンボリストたちは・・・詩的霊感の欠乏を必死になって補おうと・・・あらゆる文学を探究し、いそいであらゆる典礼定式書を検討し、偽の象徴の目録を作成して、必要に応じてそれらを利用しようとする。・・・それ以来、彼らは詩人というよりはこの道の達人となる(p71)。

雷のようにひびく声で大げさな台詞を語ることによって、群衆の喝采をよび起すことに慣れている俳優たちは・・・曖昧な表現であることには、なかなか甘んずることができない。・・・こうして・・・メーテルリンクの劇が、俗悪さとばかばかしさとが拮抗し合っているだけの、ただのメロドラマになってしまっているのがあまりにもしばしば見られるのである(p121)。