:「フランス文学講座5 詩」


阿部良雄他「フランス文学講座5 詩」(大修館書店 1979年)

                                   
 それぞれの分野の専門家9名の執筆陣による510ページの大著。中世からバロック、古典主義から高踏派、象徴派以降でそれぞれ単行本になるぐらいの充実度で、新書版にくらべて読み応えがありました。翻訳本の回りくどさはなく、平易な日本語で書かれていて読みやすく感じました。

 一冊読んだ程度で1000年以上もある詩の歴史を単純化するのは気が引けますが、全体を通して、それぞれの時代において「内容・心情・精神」と「形式・技巧・芸術」との間で葛藤する姿があり、時間の流れから見ると「技巧の類型化」と「新しい表現」の鼬ごっこのようなところが感じられました。

 はじめに詩は韻文の朗誦として登場するわけですが、「単に物事を伝えるだけなら詩は不要」で、どういう風に伝えるかという表現の技巧に詩の核心があったことが分かります。朗誦されるという性格から作者という存在は作品のヴァリアントの中で消失する運命にあり、そこから考えても、詩は個人的な体験や特殊な心情を語るものでなく、決められた狭い範囲のテーマの中で技巧を競うというものでした。引用されている武勲詩のマンネリ的表現の羅列には驚き。

 技巧を尊重する傾向は、①あるひとつの主題について論評を行なうブラゾンの流行、②誇張、語の反復、比喩の多用、対照句法や気のきいた終わり方の奇警句法を駆使するバロック詩、③属性を隠喩的に表現して事物を当てさせる謎詩や人間の事物への変身を気のきいた理由をつけて語る変身詩などサロンの遊び、④19世紀のゴーチェや高踏派による詩の彫琢への研鑽など、様々な形で現われています。

 一方、技巧偏重の反動から精神性を重んじる傾向としては、①16世紀に強烈な情念を直截に表現しようとしたルイズ・ラベ、②隠喩を追放し比喩も軽視しやがては詩そのものまでも否定する17世紀の動き、③真率な魂の告白を流麗な韻律にのせて平明に歌い修辞に倦んだ読者の熱狂的支持を受けたラマルチーヌ、④詩を芸術の側から人生の側へと決定的に引き寄せたロートレアモン、コルビエールら傍系の詩人。⑤そしてランボー、ラフォルグらが思考の流れに沿った内的律動にまかせた自由詩を試み、これが詩を「精神の行動」とみなす現代フランス詩へとつながって行きます。

 表現の新しさを求める動きはどの時代にも見られますが、①優雅な詩語の代わりに野卑な言語を用いて滑稽さを出そうとしたビュルレスク、②奇矯なバロック的文体を否定し優雅で洗練された詩風を継承しようとしたマレルブ、③洒落れたプレシオジテと俗語を尊ぶビュルレスクをともに克服した古典主義、④高踏派までの手垢がついていた古代ギリシアローマ神話を避け中世神話によりどころを求めた象徴主義、⑤象徴主義の北欧志向を批判し古典主義への回帰を主張したモーラス、⑥影像に溢れたシュルレアリスムの反動として主観的な表現の可能性を断念し禁欲的な措辞に赴く戦後詩など、つねに隆盛とともに鈍麻してゆく先代を乗りこえようというエネルギーを感じます。

 ヴェルレーヌが「何よりもまず音楽を」と歌い、ヴァレリーが「音楽からその富を奪還する」と書きましたが、詩の音楽的要素を求める動きが古くから形を変えながら登場していたことも指摘されていました。詩句に内在する音楽性を探求し詩と音楽の結合を志したプレイヤード派の詩人たち、句末の韻に注意を奪われることによって音楽的な流れがせき止められると考え完全押韻に異議申し立てたネルヴァル。

 ロマン派の専売特許と思っていた、沼地の静けさ、そそり立つ岩、朽ちた城、恐ろしい夜などの自然描写が、すでに後期バロックの詩のテーマであったこと、象徴主義詩法の「万物照応」はスウェーデンボリフーリエの思想の影響のもとに生まれたということですが、すでにユゴーやネルヴァル、サント=ブーヴらにも似たような考えが見られることなどを知りました。とくにサント=ブーヴは、なんとなくこれまで馬鹿にしていましたが、日常卑近の都市生活を歌うボードレール散文詩に大きな影響を与えたようです。

 シャスイニェ、サン=タマンらのバロック詩、神を怖れぬ者たちが悪魔にさらわれる怪異を歌ったという「二人の射手」や現実の奥にひそむもう一つの現実、超自然の世界を喚起する「アルベール・デューラーに」の二つのユーゴ作品、怪奇好みの中世趣味溢れるゴーチェの長詩『アルベルテュス、別題・魂と罪』、ロマン主義の水脈をよみがえらせたロベール・デスノスの「夜の源泉」、ロジェ・カイヨワ晩年の散文詩集『石』や『反映された石』など読んでみたくなりました。