高橋巌『美術史から神秘学へ』


高橋巌『美術史から神秘学へ』(書肆 風の薔薇 1982年)


 前回に続いて、高橋巌の本を取り上げました。美学美術史に関する初期の論考をまとめたもので、『ヨーロッパの闇と光』以前に書かれた論文もいくつかありましたが、ほとんどは以後の作品。『ヨーロッパの闇と光』を読んで、なんとなくぼんやりと高橋巌の美学上の立ち位置を感じていましたが、この本を読んでようやくそれが明確になったように思います。

 ひとつは前回も少し触れましたが、著者が、バロック―ドイツ・ロマン主義象徴主義という流れに高い関心を示していること。そしてもうひとつ、「序」にあたる冒頭の「若きヴエルフリンにおける美学と美術史」や評論のいくつかから窺えたのは、ブルクハルト―ヴェルフリン―ゲーテワーグナーという系譜を考えていることで、自らの学問的姿勢もその線上に置いているということです。

 ブルクハルトは歴史についての思弁的哲学的なアプローチを意識して避けようとしていて、ヴェルフリンはそれを美学の世界に持ち込み、芸術を因果論的に考察することではなく、ひとつの生命法則として目的論的に追求することにより、独自の美学を打ち立てたとしています。またゲーテにも抽象的思惟に対する不信があり、「私の観照そのものが一つの思惟である」として、直接観ることやファンタジーの力を称揚しており、ワーグナーも、概念的思惟よりも自然=生の形成の法則が根源的かつ必然的とみなしているということで、上記の系譜を思い描いています。

 本書には、私にとって興味深い主張や論点があったので、記しておきます。
①ヨーロッパでの古代の終わりを、529年としていること。根拠として、モンテ・カッシーノの異教神殿を破壊して、同じ場所に西洋最初のベネディクト会修道院を創設し、また同年、アテネ・アカデミーが廃止されたことを挙げている。

②ドイツとネーデルラントには、イタリアのようなルネサンス時代はなく、15世紀は初期ルネサンスというよりも末期ゴシックというのがふさわしく、そのままルネサンス様式を飛び越えてマニエリスムもしくはバロックに直結している。その証拠としては、ルネサンス様式の本質である空間形式において、イタリアのブルネレスキ、アルベルティなどに比肩しうる建築家がひとりもいないことである。

デューラーが南方への志向を持ちイタリア美術から多くを学んだのに対して、クラナッハはつねに北方への志向を持ち続け、ドイツ浪漫派の先駆者として、森と童話のドイツ的幻想の中に生きた。

ブリューゲルを代表とするネーデルラントの画家は、グリューネヴァルトデューラーのようなドイツの大画家の場合と異なり、大祭壇画が少ない。ブリューゲルの絵は室内や屋外での人間生活を描く風俗画で、これは、人間抜きの自然を描く純粋風景画と、書割なしの人間を描く純粋肖像画との中間に位置している。ブリューゲルの絵の特徴は、細部の部分が単独でも鑑賞できること、後ろ向きの人物像が巧みであること、いたるところにテーブルもしくはその代用が描かれていること。

ロココは、アポロン的というより、ヴィーナス的と言った方がふさわしい。ヴィーナスに不可欠の鏡はロココにあっても不可欠である。ドイツ・ロココは、フランスから伝えられた貝殻装飾や渦巻装飾が現われた時点を成立期とすることも考えられるが、建築物の空間構成の変化にも明らかである。バロックからロココへ移行するに従って、広間は膨張し、円形もしくは楕円形の複雑な組合せを持つようになる。→ドイツ・オーストリアロココ美術については、あまり知らなかった領域であるが、豊富な実例をもとに詳しく解説されていた。

⑥浪漫主義は視覚芸術である絵画や彫刻よりも、むしろ眼をつぶった方がよく理解できる音楽や詩の分野ですぐれた作品を生み出した。また浪漫的風景画は素描の段階ではしばしば印象主義的な筆触が現われているが、完成された油彩画においては、かつての古典主義的な形式に立ち帰ろうとしている。

⑦現実や自然に対する素朴な信頼は、印象派においては、画面の全体的効果の中で追及されていたが、ラファエル前派では、細部の中に実現しようとしている。これはラファエロ以前の絵画の特徴でもある、と印象派とラファエル前派の比較をしている。

印象主義による純粋知覚体験の追求が、失われつつある人格復権への「昼の営為」であるとすれば、象徴主義者たちによるエロスのラディカリズムの探求は、同じ近代批判の「夜の側面」を代表しているということができる。

⑨自然科学的思考方法が、既成の宗教の諸概念を否定せざるをえなくなると、宗教に代わって芸術が、神秘的世界と関係することのできる唯一の場所となった。このことについてはすでに、ドイツ・ロマン派のヴァッケンローダーが、芸術は宗教的な象徴表現にほかならないと論じていた。

 ゲーテが次のような幻視体験を語っていました。「目を閉じ・・・一つの花を思い浮かべると、いつもその花は一瞬間も最初の姿にはとどまらず、ばらばらになって、その中から、多彩な花弁やあるいはまた緑色の花弁から或る新しい花が、ふたたび開いてくるのだった・・・それは私の望み次第いつまでも持続し、弱まることもなかった」。そして、「もしそれが意識的・積極的に訓練されるならば、どんな人のうちにも見出すことのできるものであろう」と書いています。私も、疲れているときなど、眠る前に、人の顔が次々と現われて表情を変えていくということがよくあります。これは自分の力とは別のところからきていて、まるで映画を見ているようです。

 本書に掲載されていた絵や建築で、新たに気に入ったのは、ヨアヒム・パティニール「地獄の川の渡し守」、クラナッハメランコリア」、ハイルブロンのキリアン教会の塔、ミュンヘンイエズス会の聖ミヒャエル教会、アシャッフェンブルク城、アントワープ市庁舎、ノルベルト・グルント「古代記念碑のある廃墟」、ベックリン「海辺の邸宅」、「波の砕け散る岸壁」、ルドン「精霊のようなものをしばしば天空に見た」。