柏木加代子『磨く松園、視る松篁、誘う淳之』


柏木加代子『磨く松園、視る松篁、誘う淳之―上村三代の画業、京都画壇・京都芸大とともに』(大垣書店 2025年)


 先日、奈良日仏協会の奈良の古寺を巡る催しに、著者の柏木加代子さんが参加されていて、このご著書を紹介いただいたので、読んでみました。日本近代の絵画について疎かったので、明治の美術教育のあり方、日本画壇、とくに京都画壇の動きを知ることができ、また上村松園、松篁、淳之という三代の画人の生い立ちが、柏木さんがお勤めだった京都市立芸術大学の沿革と併せて語られていて、興味深く読むことができました。

 上村三代の業績や、それぞれの絵画との向き合い方を紹介しながら、当時の日本の伝統絵画が西洋の絵画と出会い、その衝撃から真のリアリティは何かと模索する姿が活写されています。著者がフランス文学者であることもあり、フランスの作家の美に対する考え方と比較したり、日仏の文化交流の視点もあり、単なる画家の評伝ではなく、面白く読めました。


 明治以降の日本の美術教育や、画壇の動きについては、次のような記述がありました。
①日本初の西洋美術教育機関である工部美術学校が1876年に設立されたが、パリ国立美術学校が女子の入学を認めたよりも21年も先んじて、6人の女性が入学を許されていたこと。→これは意外でした。

②京都では、1880年京都府画学校が創設され、江戸時代からの京都画壇の流派の継承と研究、後進育成の中心的役割を果たしたこと、それが現在の京都市立芸術学校に繋がっていること。

③江戸時代中期以降、中国の南画が盛んに学ばれるようになっており、1896年東京で日本南画会が設立されたが、翌年には、すぐに京都で日本南画協会が創立されたという。さらに1921年には、京都において日本南画院として全国の南画家が結集された。→この頃は、東京と京都が互いに競い合い切磋琢磨していた様子がうかがえます。


 パリ万博への日本画の出展など、日本画家とフランスとの交流については、
①パリに渡った最初の日本画家とされるのが、渡辺省亭で、第3回パリ万博で銅牌を受賞し、また京都の日本画家として最初に渡仏した久保田米僊は、第4回パリ万博で金賞を受賞している。しかし両万博を通じて、日本画の出展はわずかで、しかも工芸品の図案としての日本画であった。1900年の第五回パリ万博では、日本画の真髄を知らしめようと、東京・京都在住の日本画家97名の作品134点が出展された。

②京都画壇とフランス美術界が急速に接近したのは、京都市立絵画専門学校教員の中井宗太郎が1922年2月から1923年8月まで、教諭仲間の菊池契月、入江波光、吹田草牧らを同道して渡欧したのがきっかけ。彼らはフランスでルドンの作品を買い集めていたといい、京都画壇ではルドンが高く評価されていたことが分かる。


 当時の日本画家たちの西洋画との出会いは相当衝撃だったようですが、ちょうど印象派とか、象徴主義の時代らしく、それを日本画の技法と照らし合わせて、上手に取り入れていった様子がうかがえました。
①1889年に初めてフランスを訪れた久保田米僊が、最初に滞在したリヨンで、展覧会を見たときの様子を次のように報告している。「極めて煤色を用ゆるを以て近く之を見れど其何の形状を寫すものなるを辨せず然れども少しく歩を退けて之を見るときは暗淡の間に歴々として其物象を指すべく頗る韻致あるを覺ゆ」(p30)→この文章を読むと印象派の絵のように思われるが、著者は、ルドンの可能性があるとしている。

②淳之は、象徴空間の理解を、東洋的な余白のリアリティとして捉えているようで、次のような体験を書いている。「あけがたの水辺で、朝靄の中に静かに佇んでいる鳥がほのかに見え・・・それは水面もはっきり見えない、モヤモヤとしたいわば物理的に不可視の世界だが、これが象徴空間を理解するきっかけになったように思う」(p142)。


 また論述を進めていくなかで、いくつか美術論や美学に関する言及がありました。
象徴主義的な絵画を推し進めていたルドンは、花鳥風月を写真や映像のように視て描くということに執着した印象派を批判し、魂の神秘や幻視の世界を表現したとし、ルドンの描いた花々は、日本古来の花の図案などを彷彿させるとしている。

②詩人や画家が提示した美しさというものに教えられたことによって、実際にものを見たときに初めて美が感じられるようになるというワイルドの芸術論、絵画というものが、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、ある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であるというモーリス・ドニの絵画論、絵画が、視覚以外の聴覚、臭覚、味覚、触覚と触れあう境界、写真や映画との境界をもち、絵画の内部に自足することを許さないという「絵画の臨界」に関する稲賀繁美の理論。


 上村三代については、次のように三人の特徴を表現していました。永遠に自己を「磨く」ことに一生涯をかけ、近代美人画の新しい境地を開拓した「磨く松園」、長く教員として指導に当たりながら、ひたすら鳥を「観」察し自然を凝視した「視る松篁」、大学の指導的立場に身を置きながら自然界に身を委ね、破天荒に観るものを美の世界に「誘う淳之」。その淳之に言わせると、祖母である松園は「お花遊び」、父である松篁は「小鳥遊び」をしながら、削れるものは極限まで削り取った「美」の世界を生涯にわたって開拓したと言います。

 松園については、次のような記述がありました。
①松園が絵を学んでいた明治20年代には、歴史画、風俗画が流行していた。松園美人画の髪型には、梅棹忠夫が「歴史を可視像化する業績」と評価する江馬務の緻密な風俗研究が反映されているという。

②松園の出世作とされるのが「四季美人図」で、これは1890年の第三回内国勧業博覧会に出品され英国皇子コンノート殿下の買い上げとなった。そして1900年のパリ万博では、庶民の日常生活を描いた風俗画「母子」が銅牌を受賞した。

 松篁については、
①絵画専門学校に入学して間もないころに、指導教官の入江波光に絵を見せたところ、「あんた、こんな概念的なものの見方をしていて、どうするんです」と言われ、ショックを受け、それがずっと気になっていたが、3年後に、椿を集中的に写生しているときに、リアリティの手がかりをつかむことができ、自信が生まれたという。

②松篁の語録としては、次のような言葉が印象に残る。
ア)対象を深く見つめることによって得る美しさ、生命感というものがいちばん大事で、表現上リアリズムの形態をとるかどうかはまた別の問題。
イ)「怖さ」が霊的な威厳のようなものに変わってきたら、すぐれた美しさになるだろう。
ウ)春草の「落葉」とか大観の「柿紅葉」などには、近頃の絵にない、大らかさのようなものがある。芸術は香りがなければいけない。

③1947年、45歳のとき、松篁は「創造美術」を同志13人で旗揚げ、1951年には、小磯良平ら洋画家が結成した「新制作派協会」と合流して、「新制作協会日本画部」と改称、さらに1974年には新しい環境と純粋性を求めて新制作協会を離脱して「創画会」を創設という具合に、政府主導の既存の美術団体に反旗を翻し、在野団体としての活動を展開した。

 淳之については、
①自ら鳥を飼い、世界各地を旅して、鳥の観察を続けた人らしく、花鳥画は、花や鳥に己の心を託し得てこそ表現の媒体となってくれると、観察画でも博物画でもない独自の境地を語っている。

②背景をグレー一色でまとめるという独自の手法を編み出し、春夏秋冬に応じて微妙なグレーの色の変化をつけることにより、描かれた花で季節を表わすというより、空間全体で、季節の香りや温度、風の動きを表現した。


 これらの知識を携え、また松伯美術館に行って、ゆっくり絵を眺めてみたいと思いました。