
ジョルジュ・カトーイ安齋千秋訳『オルフィスムと予言の詩』(昭森社 1973年)
引き続きフランスの詩に関する本を読みました。ユゴー以降の近代詩人、ネルヴァル、ボードレール、マラルメ、ランボー、ヴァレリー、クローデル、計7人の詩人を取り上げ、タイトルどおり、神秘主義的、秘教的観点から論評している本。大学を卒業してまもなくに読んでいれば、熱狂していたような文章と内容です。しかし今の私にとっては、著者が、詩人になれなくて仕方なく評論家になったというタイプの人のように見えてしまい、評論というより詩を書いているような文章で、ややうんざり。
内容は観念的、かつ翻訳特有の読みにくさも加わり、難渋しました。マラルメの章はとくに観念的に過ぎて難解。以前読んだジャン・ポーランの「詩作において思考内容と形式のどちらが先行するか」による詩人の二分法でいえば、カトーイは思考内容派に属する人。これも以前読んだメショニックが言うように、詩人の世界観への探求と、個々の作品の韻律、リズム、比喩の研究とが相まって、初めて批評が成り立つものと思うが、後者の部分が欠落しています。
この本を書く前提となり、各章に通底している考え方は、次のようなものです。
絶対の探求者として神秘に向い、「隠された真実」を探ろうとする態度が、オルフィスムという言葉の意味である。言葉の錬金術師を標榜する詩人にとっては、魔術と詩の間に密かな類似性が存在している。これらの詩人たちは、明確な形では自らの神秘的宗教的態度を表明していない場合もあるが、その詩から受ける直感や体験の水準で、それを解明したい。
ちなみに、著者自身は、キリスト教信者であることを公言しています。
それぞれの詩人の神秘主義的な面から見た特徴を下記のように述べています。
まず、ユゴーについては、次のとおり:
①彼の目には、鉱物が生命を持ち、物質に霊気が宿って見える。「岩がしかめ面をするのを見たり、山が眼を開くのを見たりするのだ。夜が不満を口にし、水が嘆き、大理石から血が流れるのを耳に」し(p26)、「ドーヴァーの岩礁も、彼には、様々な種類の怪物が繁殖し喰らい合う妖怪の巣窟のように見える」(p36)という具合に、人間を取り巻く怪異を幻視し、表現する際に彼が発揮する言葉の才能には驚くべきものがある。
②一方、正反対の面として、透視心霊術を驚くほど乱用したにもかかわらず、ユゴーには、規則正しい健康法を守り、生活に節度を保ち、頑健な健康状態を保ち続ける賢明さがあり、自分が民衆の助言者としての権威を発揮する責務を負わされていると信じて、発言や行動を行なっている。
ネルヴァルについては:
ネルヴァルの錯乱は、「己れを奪われている」と感じているところにある。狂気が夢や追憶と結びつき、極端な主観性に陥っているのが特徴で、この狂気は、この詩人の文学上の独自性と密接に結びついている。神秘主義に関する文献を膨大に読んだためか、それらの主義のどれを選んでよいか分からなくなってしまっている。
ボードレールについては:
ボードレールの神秘主義的求道性は、初期ロマン派のラマルチーヌやミュッセやヴィニーよりもはるかに本物であり、体験的である。彼は、芸術が魔法や死者を呼び出す妖術とそれほど縁遠いものではない、と直感していた。彼は、世界を「交感(コレスポンダンス)の貯蔵庫」とみなし、その魔法の洞窟の内には未知の財宝が輝き、生命の深みのすべてが具現されているとし、詩人の使命は、象徴力を回復させるというところにあると考えた。
マラルメについては:
マラルメは、言葉の本質を、我々に理解を促すものとしてでなく、我々に未来を通告するものと捉え、言葉は一種の魔術的な力で、その効力を自ら見つけ出すとした。「語は、その母音と半母音を肉として、また、子音を骨格として、その姿を現わす」と言うのである。彼にとって、詩とは、グロソラリー(知らない言葉をも理解されるように話す能力)であると同時に、観念を表現する音楽であった。そして詩の楽しみは、徐々に見抜いて行く喜びから成り立つもので、名指しする代わりに、暗に示唆するところに夢があるとする。
ランボーについては:
「見者」たらんとする態度、それこそがオルフィスムである。彼は、「必ずやある隠された著作がこの世にあるはずであって、苦難しつつそれを読むことによって、人間は現実を再発見するとともに、何物をも間に介さない透視力のもつ快さを再発見できるはずである」と考えていた。彼の夢は、新プラトン派の人々と同じく学問と詩とを結びつけること、すなわち「失われた統一性」を見出すことが夢なのである。
ヴァレリーについては:
ヴァレリーは、世界を幾何学的物理学的に構造化しようとしたデカルトを崇拝しており、ボードレール、ランボーのような宗教的期待や超自然の探求という要素をまったくもたない。そうした不信仰はある願望と結びついている。それは我々の内にある「個人的な」ものを否定することによって純粋の「自我」に到達しようという願望である。すなわち彼が渇望するのは「神なくして神性」に到達することである。彼は、生物や無生物の内にさえ、何かしら隠れた生命の原理やより高次な人生への指向が存在する、と想像する魔術的なオルフィスムの思想を肯定している節がある。
クローデルについては:
カトリックの伝統への回帰を行なっているのは明らかであるが、ロマン派や象徴派に見られるグノーシスから受け継いだある種の信仰を復活させ、それを正統的なキリスト教の土壌に移しかえているところがある。さらに彼の極東体験、とくに能と触れあったことが、神秘的な詩法を身につける契機となった。感性、意志、知性などに能力を分離して捉える西洋的な考え方を排し、「世界の情熱」をあらゆる形で表わそうとした。バロック的と言われる文体の際立った特徴の一つがまさにそこにある。
最後にまた老人の苦言。引用されている詩のタイトルも、収められている詩集名も、その場に記されていないし、訳注にもないのは、編集上の不備。原詩に当たって確認しようとしても難しい。