ドミニック・ランセ『ボードレール』

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ドミニック・ランセ鈴木啓司訳『ボードレール―詩の現代性』(白水社 1992年)

                                              
 文庫クセジュの薄い本ですが、概説書だけあって全般に目を届かせていて、かつ内容はしっかりしてとても充実しておりました。まず簡単に生涯を追い、次いで文学史上でボードレールを位置づけ、その現代性を浮き彫りにした後、『悪の花』と『パリの憂鬱』をかなりの紙面を割いて詳細に分析し、最後に後世への影響を考察しています。  

 曲解があるかもしれませんが、主だった論点は次のような感じです。
ボードレールは、中高生で受けた古典の素養が根本にあり、ロマン主義や「芸術のための芸術」の芸術家とも深く交わった。ロマン主義の自由奔放で情動的な面には明らかな親近性を示しつつも、単なる抒情的心情吐露、安易さに身を任すことは拒否した。また、「芸術のための芸術」の形式主義理論には誘惑されるが、その異郷的物質主義は彼の精神と神秘主義に抵触するうえ、自然への対し方は彼の思想とは正反対であった。ボードレールは根っから幻視的な性質を持っていて、現実の素材を解体し想像力による配合を中心とした直感と暗示の美学を実践した。そのことが後の世代に大きな影響を与えることになった。

②『悪の花』は6部からなるが、基本的には3つに分かれる。第一は、1部「憂鬱と理想」の詩篇群で、感性の気まぐれと精神からの要求の間で揺れ動く不安定な状態を詳述、第二は、2部「パリ情景」から5部「反逆」までで、本物の「楽園」を維持できずに絶望した者が考え出す「人工楽園」を描き、第三は第6部「死」で、この世から覚束なく離脱することで獲得した脆い鎮静を歌っている。

③『悪の花』には、一貫して、肉体と精神、地獄と天、〈サタン〉と〈神〉、希望と諦観、解放と隷属、高揚と失墜など張り詰めた二元性に溢れているが、その解決を図ろうとも超越しようともせず、むしろその優柔不断を糧とし、矛盾と分裂の循環的湧出から滋養を得ている。例えば、憂鬱と理想の二項対立を考えると、憂鬱が長い時間に属し、理想が瞬間に属しているため、両者の齟齬は根源的なものであり、両者の闘争は永遠に運命づけられている。

ボードレールの詩の技巧は、古典主義の枠を越えず、ユゴーのようなロマン派の詩人に見られる詩節や形式上の大胆さはなく、語彙も貧弱で月並み、冗長で繰り返しが多い。しかし、ボードレールは、月並みな言葉のなかに現代的な言葉を配置するなど、修辞学の伝統のうえに革新を際立たせており、秩序と驚異、必然と奇抜を奇跡的に調和させた。手法として選んだのがイメージである。直喩、隠喩、形容矛盾といった想像世界の模写と浄化の力を、巧みに循環させながら利用し、その領域に天才的な能力を発揮した。

⑤韻文詩集『悪の花』と『小散文詩集』の間には、同一テーマを持つ対になった作品も多数あり、共通したテーマからなる2部作として考えられる。そのテーマとは、腐敗した自然への憎悪、憂鬱な時間の災い、それと対置される束の間の理想性の幻、創造者の疎外と切り捨て、存在の二重性、人工的手段への祈願、女の魔力の喚起、解放をもたらす死の運命である。両者が異なっている点は、『小散文詩集』では滑稽味が誇張されていることにある。

ボードレールは後続の詩人たちに大きな影響を与えたが、二つの系統樹が考えられる。一つは『悪の花』の悲劇的テーマ群に揺り動かされたランボーロートレアモンシュールレアリストのような賑やかな系列。もうひとつは、存在と世界の神秘を翻訳することへの執念を受け継いだヴェルレーヌマラルメ、幾人かのサンボリストヴァレリーのような物静かで秘めやかな系列。すなわち錬金術師たちのディオニュソス的系統と芸術家たちのアポロン的系統である。


 他に知りえたこととしては、ボードレールは、生前ごく少数の詩人、文学者に支持されただけで、同時代人からは蔑まれ、死後も20世紀初頭までは、批評界、学界で、滑稽なダンディで悪影響しかないと厳しく批判されていたこと、それが第一次大戦終了後ごろから現代性を導いたということで評価され始めたこと。また、あれほど酒を讃美しているボードレールが、実際は、「水で薄めていない葡萄酒の小瓶さえも空けたところを見たことがない」(ナダールの証言)というほど酒は飲まなかったということ。なんだかがっかりしました。