「幻想文学 特集:夢文学大全」


幻想文学46 特集:夢文学大全」(アトリエOCTA 1996年)


 文学系雑誌の夢特集続き。「幻想文学」は、準備号だった「金羊毛」を含め創刊号から10年ぐらい(36号まで)は毎号買っていました。当時は通読することはなく新刊展望と気に入った記事だけを読んでいました。この号も買ったときに、いくつか読んだ形跡がありました。今回はあらためて通読してみて、「夢文学大全」という名にふさわしく、夢に関する文学のいろんな領域にまたがった論評を網羅しているのに感心しました。とくに、石堂藍の「夢文学必携」の膨大な量には唖然。あえて言えば、詩(短歌、俳句)の分野が少し手薄か。これを読んで、読みたい本がたくさん出てきましたが、所持している未読の本を読むので精一杯です。

 掲載作品の中では、夢の本質にどうやれば迫れるかと追求したものに佳篇が多く、いかにも夢らしい非現実なイメージに溢れた多田智満子「仮を真となす時、真もまた仮なり」、夢物語とタイムトラベルの相性の良さに気づかされた井辻朱美「夢の原質」、夢の途中に現われる何の脈絡もない言葉に夢のリアリティーがあるとする藪下明博「夢のリアリティー」の3作が秀逸。

 藪下は、芥川龍之介の夢を題材にした最初の作品「寒山拾得」がどうも夢らしい心持ちがしないのは、「夢を夢らしく伝えたいがために夢の神秘性を材料として、それを日常的な法則に置き換えて語ろうとしたところに」(p69)あり、夢語りの多くがこの陥穽に陥っていると指摘していましたが、これは巌谷國士へのインタビュー「夢の記述をめぐって」で主張されている次の言葉と同様のものでしょう。「再構成された夢はつまるところ覚醒時の思考体験であり、一種の文学行為とも言えるでしょう。けれども僕はそれだけではないと実感した。夢うつつ、半睡状態みたいなときに書いてしまうことが自分の体験としてある。つまり再構成というよりは、夢と同行しているエクリチュールもあるのではないか」(p41)。


 その他に印象に残った作品は、超自然的な出来事よりも日常の中でのちょっとした不思議な出来事のほうに興味があると言い、また芸術では直観が大事だと説く横尾忠則シンクロニシティと直観と」、解釈不可能性が夢の特質で多くの夢小説は夢のふしぎさの核心を取り逃がしているという天沢退二郎「夢と文学をめぐって」、未訳の怪奇小説を紹介し英語の原書をたくさん読んでいることをうかがわせる倉阪鬼一郎「怪奇夢十夜」。

 夢そのものを描いたものでは、見たこともない仔馬ほどの小動物の皇子と同衾し最後はともに黒い烟となって一体化する野中ユリ「夢会」、「恐る恐る見知らぬ一軒に入っていく。靴を脱ぎそおっと座敷を通り前庭に立つ。庭の向こうに見える隣家も私の家ではない。生け垣をかき分けてその家に入り、またまた座敷へ上がる。その果てしないくり返し」(p33)という小柳玲子「よく見る夢五題」3番目の夢が面白かった。


 いくつか読んでみたいと思ったのは、宮部みゆきの「たった一人」、芥川龍之介の「死後」、「夢」、「馬の脚」、独特の朦朧法を用いたエイクマン作品と、それによく似た作風というウェイクフィールドの晩年作品、漱石夢十夜」に先行する幸田露伴の「夢日記」、夢の中の古本屋が出てくる石川喬司『世界から言葉を引けば』、鏡花的幻想を感じさせるという大鷹不二雄『流星洞夢』、幻想的な帰郷を描いた倉橋由美子「夢のなかの街」、夢と現実の境が崩壊してしまった男が主人公の皆川博子「幻獄」、故郷・肉親・知人にまつわる思い出と幻想とが入り組んだ色川武大『生家へ』など。

 最後に、石堂藍「夢文学必携」に短歌三種が引用されていたので、下記に。
うつつをもうつつといかが定むべき/夢にも夢を見ずはこそあらめ(藤原季通)
夢や夢現や夢とわかぬかな/いかなる世にか覚めむとすらむ(赤染衛門
始なき夢を夢とも知らずして/この終りにや覚め果てぬべき(式子内親王)/いずれもp107