文学系雑誌の夢特集二冊

  
「幻想と怪奇 特集:夢象の世界」(歳月社 1974年)
早稲田文学まぼろしの物語」(早稲田文学会 1986年)


 文学系雑誌の夢特集に移ります。夢理論よりはこちらの方が私の気性に合っているのか、気楽に読めました。が、どれとは言いませんが、いくつかの論文は、変な癖のある文章だったり、60年代の力みが感じられたり、無理やりこじつけたような論理展開だったりで、期待外れ。

 「幻想と怪奇」では、何と言ってもオスカル・パニッツァーの「三位一体亭」が、グロテスクと狂気に溢れていて群を抜いていました。ただし、夢象の世界特集の枠外の掲載のようです。パニッツァーは名前はよく目にしていましたが、これまで読んでいませんでした。以前、コメントでsacomさんから「旅行ものの話で、パニッツァはすごいのでお勧めです」と推薦をいただいていましたが、この作品のことだったのでしょうか。

 奇妙な旅人に出会う冒頭場面に続き、旅人に教えられた旅籠へ着くと、白髪の老人が現われ、老人の「とうとうおいでになりましたな?」という言葉で、一気に不思議な世界に引き込まれてしまいます。読み進むにつれ、登場人物の異様さが際立ちますが、それは老人が息子と呼ぶ青白く少女のような青年クリスチャンと、娘と呼ぶユダヤ人風の顔の女マリアの二人の年齢があまりに違い過ぎることと、彼らがヘブライ語を使いながら激しい身ぶり手ぶりを交え秘密めいた会話をしていることで、それに加え豚小屋に閉じこめているという男の雄山羊の鳴き声に似た叫び声が合いの手のように入れられ、怪奇な雰囲気を盛り上げています。どうやら三位一体とは、神(白髪の老人)、マリア(マリアの処女懐胎)、イエス(クリスチャン)のことで、キリスト教的世界が戯画化されているようです。パニッツアーの他の作品も読んでみたくなりました。

 意外な発見をしたのは、H・P・ラヴクラフト「廃墟の記憶」を訳している紀田順一郎の訳文が復古調でなかなか味わい深いこと。紀田順一郎の別の顔を垣間見たような気がしました。人類が亡び小さな尾なし猿のみが生息する廃墟が描かれています(と思う)。それに趣を添えているのが挿画で、文章の雰囲気が再現されています。画像をアップしておきます。同じく訳文に特徴があったのは、乙女小説的な印象のあるメアリ・W・シェリー「夢」で、訳者は八十島薫という人。

 「早稲田文学」の収録作品の中では、小説では、立花種久「虫の研究」が抜群。これは9年前に読んだ『私設天文台』(パロル舎刊)に収められていて、当時も高く評価していました(2014年11月7日記事参照)。まさに夢まぼろしの物語にふさわしい佳品。独白体で進行し、最初は、静かなところで仕事に集中したいという男の気まぐれで郊外の家に引っ越ししたというだけの普通の印象だったが、いろんな来訪者が次々とやって来るうちに、次第に状況が切迫し語り手の狂気が感じられるようになっていく。状況は抜き差しならぬ段階に入り込み、最後は精神と同時に世界の崩壊にいたる。立花種久の中でも最良の作品でしょう。

 評論では、堀切直人「水辺の遊歩者たち」が光っていました。明治初期の極端な欧化主義とその反動としての国粋主義の時代が終わった明治末から大正にかけて出現した東京の若き有閑人士たちと、関東大震災を経て昭和初期から昭和10年代あたりに出現した遊民たちを比較して論じています。日本文学の一時期を総攬するかのようなパノラマ風の記述が面白い。

 若き有閑人士たちの特徴は、墨田川を中心とした水都幻景ともいうべきヴィジョンを共有し、江戸への追懐、幼児の追憶、母性的庇護の記憶に彩られているとし、蒲原有明北原白秋永井荷風、木下杢太郎、芥川龍之介佐藤春夫谷崎潤一郎らの名を挙げていました。彼らが懐の温かい若旦那だとすると、昭和の遊民たちは懐中の乏しい貧民で、水の夢も破られ、現実と格闘しながら、ある者は自殺へと追いやられ、ある者は東京を離れたりしながら、自分なりの遊泳術を身につけて行ったとしています。東アジアへ漂い出した金子光晴、生と死が一如となった境地へとたどり着いた岡本かの子がその代表格として挙げられていました。

 その他の評論では、ロジェ・カイヨワ「ソランジュの夢」(松本眞一郎訳)と高橋世織「〈視〉の錬金術―朔太郎『猫町』序説」が面白く読めました。
 カイヨワ作品は、以前読んだ『夢の現象学』の延長線上の作品。眠っている愛人の横に居て彼女の夢のなかに入り込んでいくが、彼女が目覚めようとするところで、目を開けると、実は自分が眠っていたと分かる。ベッドには自分一人しかいない。そこで、今度は愛人のことを想像世界に置こうとするが、彼女の姿がどうだったか思い出せなくなる。すると今度は愛人が目覚め、カイヨワの夢のなかに入っていたのだと思う。といった具合に、カイヨワと愛人の夢が入り組み、そのあと平行する夢についてのボルヘス風の考察が繰り広げられる。小説かと思って読んでいると、夢に関するエッセイになっている、といった感じの作品。

 「朔太郎『猫町』序説」は、朔太郎の耳の鋭さと空間への嗜好に着目した意欲的な評論。耳の鋭さでは、「天景」のShi音を基軸とした構成、「青猫」に見られるオノマトペの自在さを挙げ、さらに耳だけでなく、「猫町」など朔太郎作品には、色、匂い、音、味、意味が融合したシンフォニー的な境地があることを指摘しています。空間への嗜好に関しては、「猫町」の空間が迷宮であり、幻燈のような空間で、一種の胎内空間と見立てられると言い、さらに異なる方向から見るあり方は、立体派にも通じるものがあるとしています。朔太郎は実生活でも立体写真を愛好していてたくさんの撮影をしていて、『萩原朔太郎撮影写真集』(上毛新聞社刊)という本まであるそうですが、立体写真は、見たときに変哲もない光景が突如として「四次元」の幻想空間に変貌するという点で、「猫町」で一瞬垣間見る空間と類似しているという。