:『幻想空間の東西―フランス文学をとおしてみた泉鏡花』

                                   
平川祐弘他『幻想空間の東西―フランス文学をとおしてみた泉鏡花』(十月社 1990年)
                                   
 大学時代の後半、改造社文学全集などで鏡花を読み、「一之巻」〜「誓之巻」「笈摺草紙」「高野聖」「薬草取」「春晝」「春晝後刻」「龍潭譚」「草迷宮」などの作品世界に夢中になり、友人と金沢に行ったり、当時探せばまだ安く手に入った鏡花の袖珍本を集めたり、岩波の全集を格安の端本で揃えたりして喜んでおりました。袖珍本の方は卒業と同時に友人に譲っていまは手元に残ってませんし、鏡花全集も置き場所がなくなってきたのでそろそろ手放そうかと考えていたところです。

 この本も出版されたころに買っていたもので、長い間寝かせておりましたが、フランス文学との関係ということで読んでみました。ただ残念ながら、鏡花の作品はしばらく読んでなかったので、途中作品が周知のものとして説明抜きで続出するところでは、どんな物語だったか記憶もおぼろげになっていて、よく理解できませんでした。

 この本は、1988年に金沢で行われた日本仏文学会での泉鏡花をめぐるシンポジウムをもとに編纂したもので、5人のフランス文学者・比較文学者が文章を寄せています。全体を通じて思ったことは、これまで、夏目漱石のイギリス、森鴎外のドイツ、幸田露伴の中国との関係に比べ、鏡花は純日本的な作家という印象がありましたが、実は西洋文学を愛好しその技法や精神を学び大きな影響を受けていたことが分かりました。

 平川祐弘は、ラフカディオ・ハーンの『日本』とフュステル・ド・クーランジュ『古代都市』を引用しながら、西洋でのキリスト教が駆逐する前の古代の素朴な信仰と、日本での祖先の霊崇拝の相似た部分について語り、鏡花の作品がそうした敬虔な幻想空間に支えられていると主張しています。大家の手すさびのゆったりとした印象がありました。

 私市保彦は、西洋幻想文学と鏡花作品における①魔術の役割、②入れ子構造の技法、③他界幻想のあり方、④原像としての女性を比較し、全体を通じて鏡花における語りの重要性を指摘しています。この本の中では、もっともオーソドックスな論の展開の仕方ですが、新鮮な驚きはありませんでした。

 天沢退二郎は、アンリ・ボスコと鏡花の親近性を、異人・漂泊者の存在、多神教的信仰のかたち、他界と交流する姿から説明し、さらに細部においてもいろんな照応が見られるとしています。ボスコの『まだしも深からぬ忘却』や、ジョゼフ・ダルボーという南仏の未知の作家の『ヴァカレスの野獣』という面白そうな作品を教えられました。この人はいつもそうですが若干手抜きの印象。

 篠田知和基は、後半に秘境について語っている部分は少しありますが、ほとんど分身幻想にテーマを絞り、西洋の小説や伝説にみられる分身幻想のいろんな形を豊富な例を挙げながら説明し、『高野聖』『春晝』『日本橋』『銀短冊』等鏡花作品に出てくる分身ついて、その性格を吟味しています。この本ではいちばん興味深く読みました。幻想文学の主要な問題点が、凝縮されていろいろ出て来ているようですが、これもこの人の特徴で、あまり整理されていず、冗舌に書きなぐったという印象がありました(というか私の理解が悪いのかもしれない)。

 柏木隆雄は、この本の中ではいちばんテーマに忠実で、実際に鏡花がどういうフランスの作品を読み、どういった技法を身につけたかについて書かれていて、ユゴーノートルダム・ド・パリ』やメリメ『イールのヴィーナス』、『シャルル十一世の幻想』が鏡花作品に反映されている部分を明らかにしています。この中ではいちばん若いのに、落ち着いた文章。

                                   
 いくつか印象に残った部分を引用しておきます。

フェアリー・テール・・・イタリアへ南下するに及んではほとんど傑作を見かけなくなる。・・・歴史的な説明としてはキリスト教化が古くから行なわれ、それで魑魅魍魎が消え失せたのだといわれている。/p17

以上、平川祐弘「幻想空間の東西」

新しいジャンルとしての幻想文学は、レアリズムという形式をとることによって、読者を納得させ、読者をその物語世界に引きずり込んでいった。日常の空間の割れ目から突如魔術的世界が侵入してきて、主人公をさらってゆき、主人公は日常世界と魔界とのはざまに引き裂かれるという構造をもつことによって、読者を戦慄させたのである。/p46

異界と日常との仲介は魔術によってのみ可能であるというのも、きわめてヨーロッパ的である。/p46

魔物の存在が主人公以外の他者にも認められている、いわば、共同幻想であることを示している。/p50

物語の登場人物が共同幻想にとらえられているのではない。読者が共同幻想にとらえられているのである。・・・昔話や怪談の語りのもつ吸引力をもっている。その語りは、まさに歩いているような足取りの効果を一行一行の行間の間によってもたらす。/p51

語りが積み重ねられるに従い、現実の空間が超自然の空間に深まるという比類のない語りを使っている。/p57

以上、私市保彦「鏡花文学とフランス幻想文学―対比による読解」

事実としてのそのような怪異ではなくともいい。・・・精神に異常をきたして、そのように認識するのでもそれは十分で、現実はまさに「狂気」という怪物に侵されているのである。/p129

高野聖』で馬に変えられた男・・・彼の欲望をあからさまに目の前につきつけるように姿をあらわしたのだとするなら、馬は欲望の形であるということになる。/p136

西欧では姿の見えない狼が、人の傍らに随伴し、死ぬときにその魂をくわえて冥界に走り去ると言う/p147

→先日読んだデュマの「ベルナルド・ド・ズニガの驚くべき話」のラストシーンに出てきた。

『龍潭譚』の如き異郷淹留譚も、そこにこそ本当の住むべき故郷があり、そこにこそ本当の母親と、そして本当の自分がいるという意識、しかし、その故郷を見失って、自分も自分でなくなったという意識を物語化したもの/p155

異民族、異文化との日常的接触が象徴化されて昔話、伝説に動物の姿が影を落とす文化が日本では育たなかったのかもしれない。/p164

以上、篠田知和基「鏡花の分身幻想」

「美女、僧侶、白痴」の人格を配することによって、浪漫的気分を効果的に高めようとしたのではなかったか。幻想空間の鏡に映し出されるエロチシズムとグロテスク、西洋ロマン主義の重要な要素が、見事に日本の極めて土俗的な風土に移しかえられて新しい美の世界を現出したのである。/p220

以上、柏木隆雄「妖異の語り方―泉鏡花とフランス文学」より