:芳賀徹・平川祐弘・亀井俊介・小堀桂一郎編講座比較文学2『日本文学における近代』

    
芳賀徹平川祐弘亀井俊介小堀桂一郎編講座比較文学2『日本文学における近代』(東京大学出版会 1973年)


 この本は東京大学教養学部比較文学比較文化出身の先生を中心とした論文集で、八冊のシリーズの二巻目です。森亮の翻訳詩論「『於母影』から『珊瑚集』まで」や島田謹二「『田園の憂鬱』考」、井村君江日夏耿之介の詩の世界」など興味をそそる論文が並んでいるので、読んでみました。
                                   
 2部に分かれた第Ⅰ部「伝統的形式と独創」には力の入った論文が並んでいました。
冒頭の「詩における伝統的なるもの」は、近代詩の出発点と位置付けられている『新体詩抄』が実はそれほど独創的でもないこと、これまで過大に評価されていたことを論証していますが、著者神田孝夫の講談を聞いているような口調の良い文章が魅力的で(講談の神田派と関係があるのか?)、その時代を俯瞰するような幅広い知識を背景に、『新体詩抄』に対する評価のひとつひとつを崩していくそのわざは快刀乱麻を断つ如く鮮やかです。

 次の森亮「『於母影』から『珊瑚集』まで」も期待どおりで、『於母影』『海潮音』『珊瑚集』の三つの詩集のいくつかの作品を取り上げ、そこに見られる詩の技法をリズムや用語の点から細かく解き明かしています。用語について明治の詩人たちが大変苦労していた様子や、結局は江戸時代までの古典の知識が訳詩を生き生きとしたものにしているということがよく分かりました。

 これは「外国文学らしい異質・清新の美を移し植えるという要請と、・・・鑑賞に堪える詩として独り立ちできるほど国文の血脈を受け継いだものでありたいと願う心と―この二つのものが訳者のなかで争う(p56)」という冒頭の指摘のとおり、訳詩という作業が本来持っている宿命ではないでしょうか。

 永井荷風の用字法―例えば、希望(のぞみ)、憎悪(にくしみ)、動揺(うごき)、警鐘(はやがね)など―二字からなる漢語にそれの訳語とも言うべき訓読みの振り仮名を添える用字法は、詩という凝縮されたスペースのなかで多重的な響きを持たせるなかなか魅力的な方法だと思いました。

 柳富子「二葉亭の初期の訳業」も、二葉亭の訳文の魅力をロシア語を並列的に見ながら丁寧に解析していて、ツルゲーネフの「:」「―」「…」など句読記号の多用、形容詞の多い文章や音楽性に富んだ文章をうまく日本語に移し変えているさまがよく分かりました。

 脇明子泉鏡花夢野久作」もこの時まだ大学院生ながら切れ味の鋭い論を展開していて、驚きです。


 第Ⅱ部では、島田謹二井村君江の二論文は期待どおりに面白く読めましたが、出色なのは三浦安子「朔太郎の『白』の世界」で、朔太郎の詩の「白」の表現に着目し、そこに焦点を絞って作品を鑑賞することで、朔太郎の内面に新たな光を当て、詩人の辿った道を明らかにすることができているように思います。


 下手な要約はこれくらいで、本文の引用を以下に。

漢文が読め、漢詩ができるという者こそが、よく西洋の書物を読み得た/p45

神田孝夫「詩における伝統的なるもの」より

調子の良さがこのリズム(十音を二つ重ねた十十調)からはほとんど感じられない。単位をなす十音というのが、私たちが一読してその音数を感ずることのできる上限と思われる八音を二音越えているからである/p59

英詩の十音節の行やフランス詩の十二音節の行を国語の二十四音で訳すとなると、訳詩のほうが収容力が少し大きい。勢い余計な加筆をすることになる。そこで・・・考え付いた(上田敏)のが五七五・七五七交錯体である。これは十七音の行と十九音の行とが交錯するので、定型詩としては原詩の内容を過不足なく伝えるのにもっともふさわしい/p61

以上、森亮「『於母影』から『珊瑚集』まで」

形容詞を三語重ねる・・・墨絵のぼかしのような言葉を用いて、文章にかげりをつけ、全体に柔らかな雰囲気を作り出している・・・形容詞の二重性、すなわち「金色がかった水色の月」とか、「白みを帯びた灰色の雪」というような言い廻し/p97

「座して、四顧して、そして」という個所は、・・・同音の繰り返し・・・ツルゲーネフの文章が同音の繰り返しで音楽的効果を生み出している/p109

ロシア語の語順を忠実に日本語に移すため、副文章を先に訳さず、倒置法のような形で文章を終わることは、二葉亭の場合、たびたび/p111

二葉亭の解釈、あくまで内的意味を感じとってそれから訳そうとした姿勢がうかがえる/p114

以上、柳富子「二葉亭の初期の訳業」

鏡花が、従来文学者と呼ばれてきた人人よりも、大衆作家、流行作家として黙殺されてきた人々のほうによく似て・・・鏡花がこれらの作家たちと運命を共にしなかったのは、彼が「なぜか」文壇で占めていた高い地位と、一流文学者と目される人々が「なぜか」彼にはらっていた敬意とのせいであると言ってよい。・・・昨今の夢野久作国枝史郎などの再評価は、まだ多分に興味本位のものであるとしても、鏡花が・・・忘れられた一群の追放作家たちのなかに位置づけうるのだということを予感させてくれたし、さらに、フォルマリスム批評の紹介は、真面目な作品だけが真面目に扱われるべきなのではないことを警告してくれた/p120

夢野久作・・・一人称饒舌体・・・長話をになう語り手たちは、当然ながらしゃべることのマニアであり、多くの場合、死を決意していたり狂気にさらされていたりする。彼らは死や狂気の瀬戸ぎわで自我をつかまえようと必死なのだ/p123

以上、脇明子泉鏡花夢野久作

自然主義反自然主義の対立は同時代における世代間抗争の観を呈していた・・・転換期に現われた新旧世代の抗争だったとみられる面がたしかにある/p198

小堀桂一郎自然主義反自然主義

佐藤春夫・・・石井柏亭に画業のてほどきをうけ・・・二科展にいくたびか入選/p216

ポーやホフマンなどの幻想文学をあわく日本化したような、童話風な面白さの面がこの物語の成功した部分の中心のように思われる/p258

以上、島田謹二「『田園の憂鬱』考」

耿之介の詩作品の光景のなかに年を経るにつれて人影がなくなってゆくということ/p281

最も超絶的ロマン派の後継者としての象徴主義者が、あれほどに方法(テクネ)に賭けたというのは一つのアイロニーである(W・サイファー)/p288

耿之介は・・・ゴシック・ロマンス文学を・・・超自然的な怪異・幻想・恐怖・センセーションを主題としていることから、「怪談悪漢東方物語一派」と呼んでいる/p303

佐藤春夫によればromanticという言葉を「伝奇的」と意訳したのは森鴎外であり、「浪漫的」と音訳したのは夏目漱石であるという/p305

以上、井村君江日夏耿之介の詩の世界」

白い人工物は、それ自体独立の存在物であると同時に、詩人に内在する都会への憧れ、近代西洋文明への憧憬の表象でもあるという二重性を帯びている/p318

詩人の「生の意識」の病的な鋭さを表わす白(「輝ける手」ほか)と、官能に対する暗い刺激、病鬱、暗い性感覚などを表わす白(「薄暮の部屋」など)が明らかにされた/p324

「うすらあかり」「しめやか」「そこはかとなき」「侘しき」「ひそかに」・・・これらの語句全体からかもし出されるのは、ひと言でいえば「愁い」であろう/p327

那珂太郎は、前半期の代表作では「『わたし』という一人称がけっして現われることなく、イメエジをしてすべてを語らせ」ていたが、後半期には、「内部閉鎖的なヴィジョンの球体は瓦解し」「『わたし』による直説法的抒情表白体の道が」選ばれる、と述べている/p332

詩人の眼はもっぱら自己の内部に向けられ、外界の諸物象は詩人の白く彩られた内部感情に色づけられる/p333

以上、三浦安子「朔太郎の「白」の世界」

神秘に引かれ、心の不安自体を楽しみ、自分を取り囲む暗い世界の中にとけこむことを望んでいる。この谷崎は、自由を渇望し、束縛をのがれ、日向に咲いた豊満なヴィーナスを夢み、光輝く活気的な世界を夢みる谷崎と対立する/p348

ジャクリーヌ・ビジョー水島裕雅訳「谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』」より