:現代詩講座のシリーズを読む、第一巻


日夏耿之介他『現代詩講座第一巻 詩とは何か』(創元社 1950年)
(写真は左側函、右側中身)

                                   
 詩に関する本を連続して読んでいます。音韻やリズムについての本からしばし離れて、概説書を読むことにしました。戦後間もなく創元社から出たこの『現代詩講座』は、現代詩と名づけられていますが、村野四郎や北川冬彦あたりまでです。本棚を眺めてみると、昭和7年に金星堂から出た『日本現代詩研究』ですら現代詩とうたっています。ずっと現代詩と言い続けて、あと百年もしたらどうなるんでしょうか、どうでもいいことですが心配になってきます。

 日夏耿之介鈴木信太郎小林秀雄西脇順三郎金子光晴山中散生、佐藤正彰、春山行夫吉田精一小野十三郎矢内原伊作伊藤整瀧口修造北川冬彦加藤周一高見順中村草田男と重鎮が揃っています。戦前に教養を培った人たちの文章は、具体的で感性に訴えるところが多く、どことなく滋味があり、読みやすくて、読んでいて心が安らかになります。

 第一巻は「詩とは何か」と題され、詩の概説、歴史、海外詩との関係、他ジャンルとの関係などの視点から、文章を集めたものです。第二巻「詩の技法」、第三巻「詩の鑑賞」、第四巻「海外の詩」と続きます。

 こうした講座もののよいところは、大勢の執筆者の文章をまとめて読めるということです。一人一冊ずつ読んでいたら大変で、これで新しく見つけたお気に入りの作家の本を読めばいいわけです。それと概要、全体図がてっとり早く理解できるということでしょうか。

 とくに面白かったのは、西脇順三郎「現代詩の意義」、金子光晴「現代詩とその方向」、吉田精一「歌論・俳論・詩論」、伊藤整「現代詩と小説」で、西脇の文章からは、あくまでも詩の美を中心に据えて考えている姿勢が伝わってきましたし、金子は、現代詩を理解しようとない人を厳しく批判し現代詩人たちを擁護しています。吉田は、知識の豊富な人らしく文学史の全容を見渡し、とくに明治期の文学状況をまるでそこに居るかのように語っていて、伊藤は、詩と小説が離反したのは近代の一時期だけに過ぎず、古代中世では叙事詩のかたちで、現代では象徴主義の手法を取り込んで、詩と小説が一体となっていると指摘しています。

 全体に感じられる問題意識としては、やはり音韻から視覚的な方法へと関心が移っている様子がうかがえるのと、海外の状況にいちように関心が高いことと、モダニズム的な世界がずいぶん浸透しているなという印象を受けました。

 小林秀雄の文章はまともに読んだことがありませんでしたが、ここに収められているのを読む限りでは、過去の多数の批評を自分なりに咀嚼しアレンジし、断言的で鋭い表現にまとめあげているだけで、本質は美文家という感じを受けました。こういう概説の文章だからでしょうか、原典に即して考え自分独自の新しい説を生み出しているようには思えませんでした。


 印象に残った文章を引用しておきます(旧仮名遣いは現代に変えています)。

実験的にやっていることは、或る対象に対して自分の印象や感じた思考をかかずに、自分に何物か詩的興味を与えてくれるものを写生するようにする/p61

以上「現代詩の意義」(西脇順三郎)より

それらの知識人(現代詩がよくわかりませんと暗に非難する人―引用者)は、現代詩よりもっと詩らしい詩の引きあいに、・・・歴史評価の定まった詩人たちをつれてきて、あらかじめ勝負のわかった対決を計算に入れた安心のうえで物をいうのである/p75

自由詩の発展の限界も、日常語をてなづけることができないで、かえって日常語に手なづけられてしまった点にある/p78

雅文的な詩は、よほど清新な才機にめぐまれた詩人の手に成っても、ふるさをまぬかれないものだ。雅文雅語の馴れ合いの魅惑が、折角の詩人の素直な感動をも、ある型にはめてしまうから/p81

以上「現代詩とその方向」(金子光晴)より

象徴派詩人・・・いわば深さにおいて得るところを広さにおいて失うというように、一種の詩歌の枯渇、貧困を来たすことを避け得なかった/p135

以上「高踏派と象徴派」(佐藤正彰)より

自由詩・・・反形態の運動であった。この運動によって詩を韻律法にしたがって書くという習慣は一掃されたが、なぜ反形態の方向に進んだかとか、なにが韻律法に代って詩の世界に重要になったかといったことについては、どの詩人も批評家も気づかなかった/p153

以上「外国詩の影響」(春山行夫)より

明治の歌論で最もやかまし論議の種となったのは、ことばの問題で、新しい精神を表わすために、俗語や漢語をも用いるべきかどうかということである/p162

然しこうした方面の研究(音韻の研究―引用者)が、出来上がった成果を跡づけるためには役立つとしても、果して今後の創作にあづかって指針となり得るかどうかは、目下の所では大西の云うように疑問というべきかも知れない/p170

以上「歌論・俳論・詩論」(吉田精一)より

広い意味で象徴詩とは認識詩であります/p195

以上「現代詩と哲学」(矢内原伊作)より

詩は舞踏に、小説は黙劇に比喩されるかも知れない/p201

極めて微妙なものを、はっきり効果を意識しながら操作するという精神が詩を新しくしたのである。ポオとボオドレエルとフロオベエルは一群の、言わば方法家であった/p203

以上「現代詩と小説」(伊藤整)より

シナリオの形式の活用が、長編叙事詩の創作に、打ってつけであることに気付いたのはそう古いことではない/p228

以上「現代詩と映画」(北川冬彦)より

若し、古語の正しい復活と共に口語の正しい高揚と洗練とが実現されなかったとしたら、いったい口語は、いつの日にどこで高揚され洗練されるというのであろう/p248

以上「私の見た現代詩」(中村草田男)より