:Marcel Béalu『Journal d’un mort』(マルセル・ベアリュ『死者の日記』)

                                   
Marcel Béalu『Journal d’un mort』(Phébus 1978年)

                                   
 昨年パリでの購入本。ベアリュの奥さんが作家の死後も続けている古本屋「Le Pont traversé(渡られた橋)」で買ったものです。「あなたもこの本を翻訳するんですか」と聞かれたことを思い出します http://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20120710/1341878608

 ベアリュの比較的初期の作品。冒頭のGoldschmidtの評論では、この版が出るまで、入手困難な作品として一部の愛好者から幻の書と言われていたそうです。

 この冒頭の評論は私にすれば文章が難しく感じられました。本体も、散文詩と寓話を思わせる断片的な文章がひと続きになって物語を作っていて、散文詩特有の凝縮された抽象的な表現が多く、難渋するところも多くありました。が今年読んだフランス書の中では一番といえるぐらいの面白い内容でした。

 私がこれまで読んだベアリュの作品は、いずれも翻訳で、『水蜘蛛』(エディション・アルシーヴ 1981、白水社 1989)、『夜の体験』(パロル舎 1998)と、『現代フランス幻想小説』(白水社 1970)に収められた「首輪・まどろむ乗客」のみですが、この『死者の日記』はそれまでの印象とかなり違うように思います。おそらくベアリュの資質がいちばん発揮できた作品なのではないでしょうか。想像力が全開して自由に飛び回っている印象があります。Goldschmidtも指摘しているように、カフカとの類縁性も感じられました。現実と幻想のはざまの得体のしれない空間に陥った主人公の困惑を描いた作品としては、日本の作家で言えば、矢島輝夫、山野浩一立花種久のあるものに似ているでしょうか。

 観念的な物語。死者が語る形で、死者の体験する世界が描かれますが、あり得ない話なのでどこか滑稽な雰囲気も漂います。大きく「LA CHEMINÉE(煙突)」「IRÈNE(イレーヌ)」「LE MORT VIVANT(生きている死者)」「SUPPLICES(責苦)」の四部に分かれ、冒頭に導入部の一篇、最後に独立した短編二篇が配置されています。

 第一部「煙突」の諸篇は、煙突のてっぺんに居を定めた死者が、以前の住まいを回顧したり、電車の網棚から乗客を観察したり、昔の仲間と大法螺を吹きあったり、時間の進むスピードや空間の広がりの変化を体験して、最後は塔から墜落するところで終わります。

 なかでも彼岸と此岸が一体となる感覚を叙述した「Dans l’au-delà nous sommes(我々のいる彼岸で)」、煙突のてっぺんから紙飛行機を飛ばして遊ぶ「Passe-temps(暇つぶし)」、何か言おうとしてメガフォンに裏切られる「Le porte-voix(メガフォン)」、レストランで独り合点の栄光から転落し屈辱にまみれる「L’usurpateur(横領者)」、レストランで夢の中のようなエロティックな世界が繰り広げられる「Ocarina(オカリナ)」、会食者が次々に蛙に変身してあたり一帯が沼になる「Famille grenouille(蛙一家)」、詩的で美しくはかない宝物が列挙される「Trésors fondants(溶けゆく宝物)」が秀逸。

 第二部「イレーヌ」は、中休みの感じで一変して、女性との関係で起こるいろんな出来事を描いています。なかでは、女性の二面性をうまく形象化した「Les deux visages(二つの顔)」が面白い。

 第三部「生きている死者」はまた一部の基調に戻って、閉じこめられた壁を壊そうとしたり、顔に鶏冠が生えてきて困惑したり、体が大きくなったり小さくなったり、風と一体になったり、昔のいたずら遊びを列挙したりする死者の姿が描かれています。

 なかでも、自分は生きていたんだという錯覚を優しく咎めるように見つめる母の姿が悲しい「L’illusion(幻影)」、道に迷ったあげく自分が歩いた跡をつけていると分かった時、前から光が見え、やってくるのは誰だという言葉で終わる「Labyrinthe(迷路)」、野原の真中に月に照らされた20の扉、朝には1000の扉が現われる「Portes de secours(助けの扉)」、物体の中に潜り込む体験を語った「Expérience des choses(物になる経験)」、我々はみんな本当は死んでいるんだと託宣が下される「Le tambour(太鼓)」が印象深い。

 第四部「責苦」は分かりやすくまたインパクトが強い掌編ぞろい。いろんな恐怖や徒労、困惑、戸惑いが描かれています。言葉を失わないようにアルファベットを守ろうと苦闘したり、愛する誰からも見放されたり、塔を築き上げようする背後から打ち壊してゆくいたずらっ子との競争など。

 なかでも、幼馴染が乞食や安売春婦を次々に助けようと約束して連れて行くところに巻き込まれ、早く逃げないとと思っていると先に幼馴染が逃げだし、その一群の中に一人取り残される困惑を描いた「de l’ami d’enfance humanitaire(人道主義の幼馴染)」、写真をいくら撮っても自分と思っている姿が写らないアイデンティティの喪失感を描いた「de photographes(写真)」、少しでも動くと壊れてしまう存在に取り囲まれ身動きできない苦しみを描いた「de l’étouffement(窒息)」、合わせ鏡が作る連続した虚像空間の部屋に閉じこめられる恐怖を描いた「de miroirs(鏡)」、最後に肝心なことを言おうとして凡庸なことしか口に出てこないもどかしさを描いた「de celui qui sait(知っている者)」がすばらしい。

 最後の二篇は少し長めの短編で、「Les billes ou naissance d’une étoile(球あるいは星の誕生)」は塔のてっぺんの主人公が真下にあるSF的な工場へ潜入する話。「Le gêneur(うるさい奴)」は少年時代の自分と出会う一種のドッペルゲンゲル譚。

 この小説は1943年3月から44年4月までの間に執筆されたと巻末に書いてありましたが、戦争のさなかよくこんな世離れした小説が書けたものです。しかしどこかに戦争のかげが落とされているに違いありません。

 散文なのに韻を踏んでいる(ダジャレのような)文章がけっこうありました。 「je suis là tapi dans un repli du tapis(p120)」など。他にもたくさんありましたが思い出せません。