:窪田般彌の随筆2冊

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窪田般彌『夜の牡蠣』(小沢書店 1983年)
窪田般彌『ギボシと紫陽花』(六興出版 1986年)

                                   
 少し軽めの随筆集二冊。『詩と象徴』などに比べて一篇がいずれも短く、新聞や雑誌、月報等に寄稿したものを集めたもののようです。『夜の牡蠣』には、個人的な経験に絡めて、文人・画家やその作品、詩人の思い出など、『ギボシと紫陽花』では、日本の詩人、海外の詩や絵画について、音楽に関する対談、身辺随筆などが収められています。のんびりと寝転がって読むには最適の本です。

 こうした随筆の面白いところは、いろんな人との交遊が語られていて、その人の思いがけない一面が覗けることです。たまたま音楽会で隣の席に座った川端康成が演奏終了後「いい人ですね」と楽曲や演奏ではなく演奏家の人柄について感想を洩らしたこと、大学時代からの友人加藤郁乎が西東三鬼のシュールレアリスム的奇想を熱っぽく語ったりしていたこと、金子光晴等持院に籠ってとても粗食に耐えられないと音をあげたが少しも驚かず居ついてしまった大人物がいてそれが日夏耿之介だったこと、晩年の西條八十がロンサール全集を片時も手放さなかったこと、大学で同じ研究室にいた菱山修三は穏やかな風格のある詩人だったが当時剽窃事件を起こした頃だったので何か寂しげだったこと。何といってもびっくりしたのは、小学生の窪田般彌がクロード・ファレールを見ていること、それはファレールが来日したとき暁星小学校で挨拶したからです。


 新しく知りえたこともたくさんありました(それか忘れているだけかも知れないけど)。
吉田一穂の令息が吉田八岑であること、佐藤紅緑俳人でもあり『古句新註』という注釈書を出していること、ルヰ・レイノオ『近代仏蘭西に及ぼしたる独逸の影響』(佐藤輝夫訳)という本があること(これはぜひ読んでみたい)、西東徳之介遺稿集『散文詩箴言・世界観』という「全篇に清冽なポエジーが漂う、心に沁みる一冊」があること(ついでに調べてみると西東徳之助は齋藤磯雄の兄)、上田敏が泣菫をレニエに匹敵する詩人と評価していたこと、ハーンが『悪の華』をそれまでのフランス詩にないものを創りだしたと言い、表現上の手本はスウィンバーンであり、ポーの幻想美に匹敵するものだと言っていること、またハーンがロティの奇怪な幻想や異国情緒に共感を寄せていたこと、坂口安吾アテネ・フランセへ通っていてフランス語をよくし、コクトーのサティ論を翻訳していること、など。


 引用文にいくつか印象に残ったものがあったので、書き写しておきます。

一生懸命しゃべっている人を見ると、一生懸命なにかを隠そうとしているな、と思う。黙っている人からは、犇々と裸が迫ってきて痛々しく切ない。/書くことは自分を隠す喜びである。/嘘は表現のはじまりである。(杉山平一「隠す」)/p51

白ばらの暗にも白き香気かな(岡野知十)/p142

ものをその名で呼ぶことは、その持つ魅力の大半を失うことだとは、サムボリズムの詩の理論だが、それはそのままエロチックの詩の詩法となる。多くのエロチック詩の失敗は、あまりに現わし過ぎるにある。・・・「隠すより現わるるなし」はここではパラドックスではなくして本則だ(堀口大學)/p172

詩人は言葉を以て事物を洗うもの、幻を以て言葉を洗い、再生せしめるもの(鷲巢繁男)/p180

以上『夜の牡蠣』

詩人の不幸は俗衆の人気を得ることだ(ヴィニー)/p21

言葉は、それに泥みすぎることのない程度で専念に磨かねばならぬ。心性史の金鉱から掘り出された言葉の粗金は、磨くに従って燦然の光を放つ、此の時自づから言葉は詩興の壺に嵌まる。(日夏耿之介)/p32

以上『ギボシと紫陽花』